1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2026
  4. 9月20日「予想を超えた報酬」

2026.9.20「予想を超えた報酬」YouTube

マタイによる福音書20章1~16節(新P.38)

1 「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。

2 主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。

3 また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、

4 『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。

5 それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。

6 五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、

7 彼らは、『だれも雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。

8 夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。

9 そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。

10 最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。

11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。

12 『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』

13 主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。

14 自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。

15 自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』

16 このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」


1.不公平な主人

①神の国の真理を教えるたとえ話

 昨今、日本は急激な人口減少に伴い、様々な産業現場で人手不足が叫ばれるようになっています。それだけ労働力が貴重な時代になったと言うことになります。しかし労働者を取り巻く労働環境は良くなったかと言えば決してそうではないようです。ニュースでは労働者を馬車馬のように働かせた上で、その人間を使い捨てにするブラック企業の話題が絶えません。最近では人手不足を解消するために受け入れている外国からの技能実習生を奴隷のように扱うような雇い主のニュースも聞くようになりました。共産主義思想の生みの親とされるカール・マルクスは産業革命以後に起こっていたイギリスの労働者たちの劣悪な環境を見て、労働者が商品として扱われるような資本主義の構造を批判しました。このことからも分かるように労働者を取り巻く環境はマルクスの時代から現代に至るまで変わることなく、厳しいものであることが分かります。

 今日の聖書箇所に記されているイエスが語られたたとえ話の中には、自分のぶどう園の収穫のために労働者たちを雇い入れる一人の主人が登場しています。そしてその主人は労働者たちの取り扱い方を巡って「不公平だ」と抗議を受けています。しかし、聖書を読んでみるとこの主人が雇人たちに支払ったのは「一デナリオン」であったと記されています。実はこの「一デナリオン」という賃金は当時の労働者の一日分としては、正当な額であったと考えられています。ですから、一日分の賃金に一デナリオンをもらった雇人がその主人に文句を言うのはある意味で理不尽であると言ってよいのです。

 しかし、彼らが問題としているのは、その賃金の額と言うよりは、すべての雇人に同額の一デナリオンを支払ったという主人の行動であったと言えます。「それでは朝早くから働いた自分たちは割が合わない」と最初に主人に雇われた人たちは文句を言い出したからです。そして彼らは「これでは不公平な扱いだ」と言って、主人は余計に働いた人間とそうでない人間との間に差をつけるべきだと訴えたのです。確かにこの世の考え方から言えばこの主人の雇人にへの扱い方は常識とはかなり違っているかも知れません。労働争議の団体交渉の現場でこの主人の主張がどれだけ認められるのか疑問を感じます。しかし、注意すべきなのは、イエスのこの話は労働者への賃金の支払いた方について教えているのではなく、「天の国」つまり神の国の真理を説明するために語られたものだと言う点です。

 聖書が教える神の国、それは私たち人間が神と共に生きることができる世界を語っています。そしてイエスはこの神の国を私たちの上に実現してくださるためにこの世に来てくださった救い主だと言えます。そしてこのイエスが実現してくださった神の国の祝福はすべての人に提供されています。その人間がどれだけ優秀かとか、どれだけ神のために働いたかと言うようなところで判断されるのではありません。すべての人に平等に与えられるのがこの神の国の祝福であると言えます。聖書が言っているように「行いではなく、恵みによって」(エフェソ2章8~9節)この祝福は私たちに与えられるのです。だからイエスの語ったこのたとえ話はこの神の恵みを私たちに説明するために語られていると言ってよいのです。


②自分は彼とは違う

 ところでなぜ、イエスはこのようなお話をあえてここでされているのでしょうか。聖書を読むとその事情が少し分かって来ます。このお話の直前の19章には一人の若者とイエスとの間で交わされたやり取りが紹介されています(16~21節)。イエスはこの青年に「自分の財産を捨てて、私に従いなさい」と勧めました。ところがこの青年はそのイエスの言葉に従うことできないで、悲しみながらその場を立ち去ります。福音書はこの青年が「たくさんの財産を持っていたから」、それを捨てることができなかったのだと言う説明を加えています。しかし、この話はさらに続きます。今度はこのイエスと青年との会話を近くで聞いていたペトロがイエスに対して、このように質問したのです。「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました。では、わたしたちは何をいただけるのでしょうか」(27節)とです。

 ペトロは自分の財産を捨てられなかった若者と自分を比べて、「自分はイエスの言葉通りにすべてを捨てて従って来たのだから、それに見合うご褒美をいただけるはずだ…」と勝手に思い込んでいるのです。これは今日のお話の中で後からやって来た雇人たちが一デナリオンを受け取る姿を見て、最初に雇われた人たちが「自分たちはもっと多くもらえるだろう」と考えたことと同じことになります。ですからこのペトロの物語の結論の部分でイエスは「先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」(30節)と教えています。そしてこの言葉は今日のたとえ話の最後の言葉と(16節)はほぼ同じものだと言ってよいのです。

 イエスが今日の箇所でも「このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」(16節)と語ったように、この言葉通りの出来事が実際に行なったことを福音書は私たちに教えています。それは神の子であるイエスが救い主としてこの地上に来てくださったときに、「自分たちは神に選ばれた特別な人間だ」と考え、神の戒めに従うことに熱心だったユダヤ人の宗教家の多くがイエスを信じることができなかったことです。そして、当時そのようなユダヤ人たちから「彼らは神に見捨てられている」と蔑まれ、差別されていた「徴税人や罪人」と呼ばれる人々がイエスの周りに集まり、そのイエスを救い主として受け入れたということです。このように神の恵みは一番「後にいる者」、つまり「自分は神の救いに与かる資格を持っていない」と思っていた人たちに真っ先に与えられ、受け入れられたのです。


2.不便だけれども、不幸せではない

 このようにこのたとえ話は神の国が私たちの努力や功績ではなく、神の恵みによって私たちに与えられることを教えていると言えます。しかし、その上でなぜ、イエスはこのような主人と雇人の話をされたのかでしょうか。私たちはここでもう少しそのことについて考えて見たいと思うのです。なぜなら、このお話に登場する雇人たちと同じように、私たちがこの世で与えられている人生は皆同じではなく、人によって全く違うからです。まず、私たちに与えられている人生の時間はそれぞれ違っています。長寿で人生をまっとうする者もいれば、若くして人生を終えなければならない人もいます。また、それぞれの生まれた環境、そしてその後の人生の歩みも人それぞれ違っています。だから私たちの中にはこの違いを見て「不公平だ」と考えてしまう傾向が確かにあるのではないでしょうか。他の人と比べては「どうして自分はこうなのか…」と考えてしまうことがあります。そして「だから自分は不幸せなのだ」と思ってしまうこともあるのです。しかし、イエスはこのお話を通して、どんなに私たちの人生が互いに異なっていても、神は同じ人生の価値を私たち一人一人に与えてくださっていると教えてくださっていると言えるのです。

 アメリカ出身の心理学者の一人でアルバート・エリス(1913~2007年)と言う人物がいます。私は彼の書いた本を今までたくさん読んできました。私はこれらの本で紹介されている彼の考え方が好きで、実際に影響を受けて来ました。そのエリスの本を読むとよく出て来るのが「不便だが、不幸せではない」と言う言葉です。私たちの地上の人生には自分にとって不都合な現実がたくさん存在しています。多くの人はその不都合な現実が自分の人生を不幸せにしていると思い込んでいます。エリスはしかし、私たちを不幸にしているのは、その自分にとっての不都合な現実ではなく、「だから不幸なのだ」と考えてしまう自分の心の受け止め方だと教えているのです。そしてその心の受け止め方を変えれば、確かに不都合な現実は変わらないにしても、私たちはその人生を通して自己実現することができると教えたのです(論理療法)。

 イエスのこのたとえ話はでは明け方、午前9時、正午、午後3時、そして午後5時に雇われた労働者たちが登場しています。私たちも同じようにそれぞれ違った人生を歩んでいます。しかしその違いがあったとしても、皆「生きていてよかった」と自分の人生を受け止めることができることは可能なのです。どうしてでしょうか。私たちの人生は神が皆、神が与えてくださったものだからです。神は私たちが皆、「生きていてよかった」と言う喜びを味わうことができるために、地上でこの人生を与えてくださっているのです。だから、私たちはたとえ自分の人生に不都合な現実があったとしても、私たちの人生を導く神に信頼して、自分の人生を喜びを持って歩むことができるのです。


3.午後5時に雇われた人の喜び

 先日、教会に在宅介護医療の専門家であり、以前にこの教会の礼拝に家族で通って来てくださっていた医師の森清先生から新しい著書『「老衰」を生きる』が届きました。私は両親もだいぶ前にこの世を去って、今度は自分が介護を受ける側になっていくのだなとこの本を読んで感じました。

 この中では「健康な状態と要介護との中間の状態」を「フレイル期」と呼び、その対策が大切であることが語られていました。いわゆる「老衰」の状態ですね…。この時期、私たちは年老いて、今まで当たり前のようにできて来たことができなくなっていくことを体験します。耳も聞こえなくなり、目も見えなくなる。そして記憶力も徐々に低下していきます。そのとき私たちはたくさんの不安と恐怖を抱えることになるはずです。そしてその不安の中には、おそらく「自分はもはや人に必要とされなくなってしまったのではないか…」と言う心配も含まれています。

「もうすぐ日もくれてしまうのにまだ自分を雇ってくれる人は現れない」。

 このイエスのたとえ話に登場する午後5時になっても広場にいた人たちは、それまでの時間をどんな思いで送っていたのでしょうか。他の人たちはすでに誰かに雇われて、そこで立派にその役目を果たしています。それなのに、自分だけはそうではありません。自分はもはや誰にも必要とされていないのではないか…。彼らはそんな不安と戦いながら広場で佇んでいたのかも知れません。

 このイエスのたとえ話には明日と言う日は想定されいません。ぶどう園の収穫は今日一日で終わってしまうからです。それは私たちの一回きりのこの地上での人生を表しているとも言えます。私たちの人生にも終わりが必ずやって来ます。午後5時、もはや彼らに残された時間はあとわずかです。ところがそこにぶどう園の主人がやって来ます。そして彼らに語り掛けます。「あなたたちもぶどう園に行きなさい」(7節)。この主人と同じように私たちの神は地上に残された時間はあとわずかかも知れない私たちに向かって「あなたも私のために働きなさい。あなたたちを私は必要としている」と語ってくださるのです。それはなんと幸いな招きだと言えるでしょうか。

 余計なことかも知れませんが、この森先生の本には「教会に通う人は認知症になりにくい」と言う項目が記されています。教会の活動に参加することが認知症になるスピードを遅らせる役割を果たすと言うのです。もちろん、私たちもやがて寝たきりとなり、この教会の礼拝にも参加できない日もやって来るかも知れません。しかし、それでも神は私たちを必要としてくださっておられるのです。私たちのこの地上の生涯が終るまで、神は私たちの人生に大切な役割を与えてくださるからです。ですからこれからも私たちはこの素晴らしい神の招きに答えて、自分のこの世での人生を神のために生きて行こうではありませんか。


…………… 祈り ……………

 天の父なる神様。

 今日、私たちに御言葉を与えてくださったことを感謝いたします。私たちは、すぐに人と自分を比べてしまいます。自分と違うことで優越感を持ったり、逆に劣等感に陥ってしまうことがあります。どうか私たちの心から、比較する思いを取り去ってください。そして、私たち自身がどれほど大きな恵みをいただいているかを、もう一度思い起こさせてください。

 私たちも、あなたからの招きに答えて、あなたに必要とされているこの地上の人生を、喜びを持って送っていくことができるようにしてください。

 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【聖書理解のための設問】

1.主人は何回、労働者を雇いに出かけていますか?賃金はどのような順番で支払われましたか?

2.最初に雇われた人たちは、なぜ不満を持ったのでしょうか?

3.主人は最初の労働者との約束を破ったでしょうか?「私は善いことをする」という主人の言葉には、どのような意味があるでしょうか?

4.「後の者が先になり、先の者が後になる」とは何を意味するでしょうか?

5.私たちは他の人と自分の人生を比較していないでしょうか?誰かが神から祝福されるとき、私は素直に喜べるでしょうか?

6.今日、このたとえから私が受け取る神様からの招きは何でしょうか?

2026.9.20「予想を超えた報酬」