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2026.8.2「イエスの御手に委ねよう」YouTube

マタイによる福音書14章13~21節(新P.28)

13 イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた。しかし、群衆はそのことを聞き、方々の町から歩いて後を追った。

14 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て深く憐れみ、その中の病人をいやされた。

15 夕暮れになったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう。」

16 イエスは言われた。「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」

17 弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」

18 イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、

19 群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。

20 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。

21 食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。


1.群衆を見て深く憐れむイエス

①四つの福音書とイエスの生涯

 皆さんもよくご存じのように私たちが読んでいる新約聖書にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネと言う四つの福音書が収められています。そしてこの福音書にはイエスがこの地上で行ったこと、また教えたことなどが記されています。そこで私たちがこれらの福音書を読んで疑問に感じることは、それぞれの福音書が同じイエスの生涯を伝えながら、その内容はかなり違っていると言う点です。実はそれは福音書がドキュメント映像のように起こった事実をそのまま伝えるために書かれた書物ではありません。それぞれの福音書の記者はイエスの地上での生涯からその信仰的な意味をそれぞれの観点から読者に伝えるために福音書を書いているのです。もちろん、それぞれの福音書の記者は神から与えられた霊感によって、それぞれの福音書を書いたとキリスト教会は信じて来ました。ですからどの福音書が正しく、またどの福音書が誤っているのかと私たちが考える必要はありません。私たちはむしろ、四つの福音書が伝えるイエスの物語からイエスの福音の豊かさを味わうことができるようにされていると言えるのです。

 実はこの四つの福音書は同じイエスの生涯を取りあげていながら、意外とすべての福音書が共通して取り上げている物語は多くはありません。その中でもイエスがわずかな食物から大群衆へ食事を提供するという奇跡の物語は、すべての福音書が取り上げているものです。ですからその点でこの物語が私たちの信仰にとって大切な教えを伝えていることが分かるのです(マルコ6章30~41節、ルカ9章10~17節、ヨハネ6章1~11節)。


②人々の病を癒されたイエス

 さて今日の物語は「イエスはこれを聞くと、舟に乗ってそこを去り、ひとり人里離れた所に退かれた」(13節)と言う言葉で始まっています。ここで「これを聞くと」と言われているのは直前の14章の1~12節に伝えられている洗礼者ヨハネの非業の死の出来事を指しています。ヨハネは当時のユダヤの権力者であった領主ヘロデの結婚が神の戒めに反していると非難しました。そしてそのことで彼は領主ヘロデによって牢に捕らえられ、最後にはその獄中で首をはねられるという死を遂げています。今日の物語はそのニュースを聞いたイエスが「ひとり人里離れた所に退かれた」ことから始まっているのです。福音書はこのヨハネが救い主イエスの登場を準備した重要な人物であると伝えています。おそらくイエスはこの出来事を聞いて、救い主としての自分の死のときが近づいていることを悟ったのかも知れません。なぜなら「一人人里離れた所に」と言う表現はイエスが神に祈る際によく用いられている表現だからです(マルコ1章35節、ルカ4章42節)。つまり、イエスは父なる神に祈るために「ひとり人里離れた所に退かれた」のです。ところが福音書は祈るために一人になろうと願ったイエスの後を追って大群衆が押し寄せたことを続けて語り出しています。この大群衆がイエスの後を必死に追いかけようとした理由は今日の物語の中にも「その中の病人をいやされた」と言う言葉で記されています。彼らはイエスに病の癒していただこうとその後を追ったのです。

 皆さんの中にもかつて病からの癒しを求めて教会に来られたり、あるいは聖書を熱心に読むようになったと言う方がおられるかも知れません。実は今から50年前、教会に行くようになった私の理由もそれと同じでした。当時の私は医者や薬では簡単に癒すことのできないような心の病を抱えて、聖書が伝えるイエスの癒しの物語を強い関心を持ちながら読むようになったのです。

 福音書は病からの癒しを求めてイエスの元にやって来た人々に対して、イエスがどのような思いを抱かれたかを「深く憐れみ」と言う言葉で表現しています。ギリシャ語でこの言葉は「スプランクニゾマイ」となり、その意味は「はらわたが揺さぶられる」ことを表していると言われています。イエスは病む人を見て、その人を単なる傍観者の一人として御覧になられるのではありません。まるで自分も同じ病を得た人のような激しい感情を感じながらその人をご覧になられるのです。だから、イエスはご自分の事情がどんなに大変であっても、決して病に苦しむ人々を見捨てることはなさらないのです。そしてイエスはすぐにその病人たちの病を癒されたと福音書はここでも記しています。

 ただ、私たちが誤解してはならないことは、イエスの癒しとは何かという点です。なぜなら、イエスの癒しがこの世の医者と同じようなものであるなら、イエスが特別にこの世に救い主として来られた意味がなくなってしまうからです。イエスが救い主としてこの地上に来られたのは、イエスだけしか成し得ないことを行うためです。そのような意味でイエスが私たちに提供する癒しは、この世の癒しとは全く違うものであると言えるのです。そして今日の物語はこのイエスの癒しとはどのようなものなのかを私たちに教えていると言うことができます。


2.イエスの癒しとは何か

①群衆を解散させてください

 さて、物語はイエスによって多くの病人の病が癒やされた後に、新たな問題が生まれたことを私たちに伝えています。その問題は人里離れた場所までイエスの後を追ってやって来た群衆の食べ物をどうするかと言う問題です。この点で弟子たちはそこで現実的な判断を下して、イエスに次のように進言しています。

「ここは人里離れた所で、もう時間もたちました。群衆を解散させてください。そうすれば、自分で村へ食べ物を買いに行くでしょう」(15節)。

 弟子たちは「自分たちの持っている能力ではこの大群衆の食事を準備することなど不可能だ」と考えました。だから弟子たちはこの群衆を解散させて、彼らが自らその食物を得ることができるようにさせてほしいとイエスに願ったのです。これは適切な判断であったと考えることができます。しかし、イエスはその弟子たちに次のように答えたと言うのです。

「行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。」(16節)。

 私たちが聖書を読んでいると、まるで意味のわからない、理屈に合わない、どう考えてよいのかと思えるような箇所にぶつかることがときどきあります。ある有名な日本の神学者は、「そういう箇所こそが私たちが真の神を理解し、また救い主イエスを理解するための鍵となる重要な内容を秘めている」と教えています。ここではとても無理なことをイエスは弟子たちに語っているように思えます。しかし、このイエスの発言は弟子たち無理難題を押し付けて、彼らを追い詰めることにあるのではありません。むしろ、このことを通して弟子たちがイエスをさらに正しく理解するためこの言葉は語られているのです。それはこの後の物語を通してよく理解することができます。

 ここで弟子たちは、イエスの言葉がとても無理なことを言っていることを証明するために次のような現実をイエスに突き付けています。

「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」(17節)。

 ヨハネの福音書を読むと、このパンと魚はイエスの後を追って家を出た一人の少年に母親が準備して持たせた弁当であったことが分かります(ヨハネ9章8節)。つまり、少年一人のために準備された弁当など、大群衆の空腹を満たすための役には立たないと弟子たちは考えたのです。


②それをここにもって来なさい

 しかし、イエスはそのような判断をする弟子たちに対して、続けて次のような言葉を語ります。

「それをここに持って来なさい」(18節)。

 そしてこのイエスの言葉に促されて一人の少年が持って来たパンと魚がイエスの手に渡されると、それが大群衆の空腹を満たして、なお有り余るものに変えられたことをこの物語を教えているのです。

 ここにイエスが私たちの上に実現してくださる癒しの素晴らしさが表されていると考えることができます。なぜなら、私たちの人生も弟子たちが何の役にも立たないと考えた「五つのパンと二匹の魚」と同じようなものだと、私たちも思い込んでいるからです。もし、私たちが自分の人生をイエスとは全く関係なく生きようとするなら、それはこの「五つのパンと二匹の魚」のようにすぐに消えてなくなってしまうような儚いものに過ぎません。同様に私たちの命は、私たちの地上での死と共にこの世から消えてなくなると私たちは考えています。だから私たちは「それではなぜ、私たちはこんな人生を生きる必要があるのか」と悩むのです。今でも多くの人がその疑問を抱きながらこの人生を生きる虚しさを感じているはずです。しかし、イエスはそんな疑問を感じる私たちに、「あなたの命を私のところに持って来なさい」とおしゃってくださるのです。そしてその言葉に従って、私たちが私たちの人生をイエスに委ねるなら、イエスは私たちの人生の本当の意味とその価値の豊かさを私たちに示してくださるのです。そのような意味でイエスの癒しは、私たちの人生を虚しさから解放し、神に祝福された豊かな人生に導くためのものだと言えるのです。


3.イエスの救いによって豊かにされる私たちの人生

 福音書はここでイエスが「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった」(19節)と報告しています。多くの聖書解説者がこのときのイエスの示した動作が、最後の晩餐で示された動作とよく似ていると指摘しています。イエスは最後の晩餐の席でも「パンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与え」られて、そのパンを「取って食べなさい。これはわたしの体である」(マタイ26章26節)と言われているからです。

 そのような意味で今日の奇跡の物語はイエスの癒し意味を表すと同時に、その救いの豊かさを表す物語だとも多くの人によって考えられています。なぜならイエスの救いこそが、私たちの人生を空虚さから解放して、私たちの人生を豊かなものにしてくださることを私たちは信じているからです。

 私たちが礼拝で守っている聖餐式はこのイエスの救いがもたらす祝福を私たちに知らせるものであると言うことができます。そして私たちがこの聖餐式を一度きりではなく、生涯に渡ってあずかり続けることもイエスのもたらした救いとその癒しの性質をよく表していると言えるのです。

 キリスト教は「悟りの宗教」ではありません。悟りの宗教とは修行を積んで悟ったら、その先は一人で生きていくことができるようになると教えます。しかし、聖書は私たちがこの世に留まる限り、弱さを持った者であることを教えます。だから私たちにはいつも救い主イエスが必要だとも教えているのです。

 また、私たちが持つキリスト教信仰は私たちが願うことを簡単に実現させることができるような魔術でもありません。魔術は私たちが通常払うべき努力を抜きにして、人生の近道を歩むためのものだと言えます。しかし、聖書は私たちの人生の近道を提供するためにイエスが救い主としてこの地上に来られたとは教えません。なぜなら、神が私たちに与えてくださった私たちの人生には何一つ無意味なことはないからです。だから無理に近道をしようとすれば、私たちは神の恵みと出会う機会も失ってしまうことになるのです。

 イエスはこの私たちの人生を私たちと一緒に歩んでくださるために来られた私たちの救い主であると言えるのです。聖餐式はこの人生をイエスが私たちと共に歩み、その助けを与えてくださることを私たちに教えているのです。

 ですから私たちはイエスの手によって五つのパンと二匹の魚が大群衆の空腹を癒し、なお余りがある豊かなもとのとされたように、私たちの人生も豊かに祝福してくださるイエスを信じ、この後に行なわれる聖餐式に与かり、信頼を持ってイエスに私たちの人生を委ねて行きたいと願うのです。


…………… 祈祷 ……………

 恵み深い天の父なる神さま。

 今日も御言葉を通して、イエスさまが私たちを愛し、必要なものを与えてくださるお方であることを教えてくださり、ありがとうございます。私たちは、自分の足りなさや弱さばかりを見てしまうことがあります。けれども、五つのパンと二匹の魚を用いてくださったように、私たちの小さなものも、あなたの御手の中で用いてください。

 どうか、いつもイエスさまを信じ、頼り、感謝して私たちが人生を歩むことができますように。また、私たちがその人生であなたから与えられた恵みを周りの人と分かち合うことができるようにしてください。そしてそのためにも私たちが進んで自分の人生をあなたの御手に委ねることができるようにしてください。

 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【聖書研究のための設問】

1.イエスは群衆をご覧になって、どのような態度を示されましたか。

2.弟子たちはなぜ群衆を解散させようとしたのでしょうか。このとき、彼らの手元にあった食べ物は何でしたか。

3.「五つのパンと二匹の魚しかありません」という弟子たちの言葉は、私たちの信仰生活とどのように重なるでしょうか。

4.イエスが「あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい」と命じられたのはなぜだと思いますか。

5.「十二の籠」が残ったことには、どのような意味があると考えられますか。

6.この出来事は、イエスがどのようなお方であることを示していますか。

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