2026.7.26「人生最高の宝を見つける」YouTube
マタイによる福音書13章44~52節(新P.26)
44 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。
45 また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。
46 高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
47 また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。
48 網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。
49 世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、
50 燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」
51 「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。
52 そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」
1.イエスのたとえ話
今日も皆さんと共にイエスの語られたたとえ話から学びたいと思います。既にお話しましたようにイエスのたとえ話は人の目には隠されている神の神秘を私たちに伝えると言う目的を持っています(35節)。今日のたとえ話も「天の国は次のようにたとえられる」(44節)と言う言葉で始まっています。聖書が語る「天の国」とは死んだ人だけが行く死後の世界を表す言葉ではありません。私たちが神と共に生きる世界を表す言葉こそがこの「天の国」の意味で、他の福音書では「神の国」と言う言葉でそれが表現されています。それでは、私たちが神と共に生きるとはどのようなことなのでしょうか。そしてそこにはどのような祝福が隠されているのでしょうか。イエスはこのたとえ話を通して私たちにその答えを教えてくださっていると言えるのです。
今日のお話の中にはいくつかのたとえ話が登場しています。まず畑に隠されていた宝を見つけた人のお話です(44節)。そして次に高価な真珠を見つけた商人の話(45~46節)と続きます。さらにその後に湖に投げ入れられた網に様々な魚が入ったときに漁師はどうするのかと言うお話(47~50節)に続き、最後には天の国のことを学んだ学者のお話が語られています(51~52節)。
この中で網にかかった魚の話だけはイエスによって「世の終わりにもそうなる」と言う解説が加えられています。そのような意味ではこの魚のお話は前回、皆さんと学んだ毒麦のたとえとよく似ていると考えることができます。
人の目にはたとえ「今」は毒麦のように見えても、それがすべてではありません。むしろ神だけがその真実を知っておられるのです。ですから「この人間はダメだ」と私たちは他人に対しても、また自分自身に対しても簡単に裁くことを止めて、神にすべてをお任せする必要があると言えるのです。大切なことは私たちが終末の裁きに恐怖して今を生きるのではなく、イエスに信頼して生き、またそのイエスの福音を伝えるために「今」と言うときを用いることだと言えるのです。
2.宝を見つけた人
①宝とは何か
それに対して、今日のお話の前半部分の二つのお話はいずれも、畑に隠された宝を見つけた人、また高価な真珠を見つけ出して商人が、いずれも大きな犠牲を払っても見つけ出したものを自分のものにしようとすると言うお話が記録されています。ただ畑で宝を見つけ出した人は予想外の出来事としてそれが起こったように聞こえます。しかし一方の真珠を見つけた商人は最初からその真珠を捜し求めていたと言う点で大きな違いがあります。さらに真珠を見つけた商人は大きな代償を支払ってその真珠を手に入れたのに対して、畑で宝を見つけ出した人は、その宝だけではなく、その畑全体を大きな代償を支払って手に入れている点でも微妙な違いを見せています。
いずれにしてもこの二つのお話では畑で見つかった宝、また見つけ出した真珠が何を意味しているのかがお話を理解するためのポイントとなっているのが分かります。なぜなら、いずれの登場人物もその見つけ出して物を手に入れるためにあらゆる犠牲を払っても惜しくないと考えている点でその見つけ出して物にはそれだけの価値が隠されていることが分かるからです。この点に関して私たちは使徒パウロが聖書の中で語っている言葉を思い出すことが大切かも知れません。なぜならパウロはフィリピの信徒への手紙の中で次のような言葉を語っているからです。
「わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(3章8節)。
パウロはこの言葉を通してイエスを知ったこと、そのイエスと出会ったことの素晴らしさを私たちに教えています。このイエスとの出会いに比べたら自分が失ったものは「塵あくた」に過ぎないとまでパウロは語っているのです。この言葉から考えるとこのたとえ話の中に語られている畑に隠されていた宝、そして見つけ出した真珠もイエス・キリストを表していると言えるのではないでしょうか。そのような意味でこのたとえ話は私たちが自分の人生の中でイエスと出会うことができたすばらしさを語っているとも言えるのです。
②イエスとの出会いによって人生が変えられる
ある聖書解説者は畑で見つけた宝によって、畑全体の価値が変化したと教えています。なぜなら彼は見つけた宝だけではなく、その畑全体を大きな代償を払って手に入れようとしているからです。この人にとってそれまでの畑は、わずかな作物を手にいれるため他人から借りていたものでしかなかったのかも知れません。しかしその畑で宝を見つけることでその人にとって畑全体の価値が変わったのです。そしてイエスに出会った者の人生もこれと同じであると考えることができるのです。
たとえばヨハネによる福音書の9章に登場する「生まれつきの盲人」がそのよき例といえます。イエスに出会う前の彼の人生は「誰が罪を犯したせいで、彼の人生はこのように不幸なのか…」と人々から考えられていました。もしかしたら、彼自身もそのために自分の人生を呪い、自分を生んだ両親を恨み、神の愛を信じることもできずにいたのかも知れません。しかし、聖書は彼の人生がイエスのとの出会いによって全く変えられたことを教えています。イエスが彼の人生の本当の価値を彼に教えてくださったからです。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(ヨハネ9章3節)。
私たちの人生もこのイエスとの出会いを通して、大きく変えられるのです。それは今まで知ることが出来ずにいた自分の人生の本当の価値を知ることができるようになるからです。この生まれつきの盲人と呼ばれる人は、この後、自分の目を見えるようにしてくださったイエスを信じることで、ユダヤ人のコミュニティーから追放されるということになります。しかし、彼の人生でのイエスとの出会いは、そのような犠牲を払ったとしても、惜しむことがないような宝となったことを聖書は私たちに教えているのです。
3.私たち自身が神の宝
さて以上、考えたようにこのたとえ話を私たちの側から考えると、ここで見つけ出された宝や真珠は私たちの救い主イエスのことであると考えることができます。しかし、このたとえ話には全く違った観点からも考え出された解釈が存在します。それは畑で見つけ出された宝や、商人が見つけた真珠は私たち自身のことを指していると言う解釈です。そしてこの場合にその宝を手に入れるために高価な代償を支払ったのは私たちの神御自身であると言うことになります。
まさに聖書は私たちにこの神の愛の御業を教えるために書かれていると言えるかも知れません。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
神は私たちを救うために独り子であるイエス・キリストの命を代償として支払ってくださったのです。そのようにしても決して、惜しくはないほどに私たちの命の価値は神にとって高価なものと考えられているからです。
イエスによって目が見えるようにされたかつての「生まれつきの盲人」はやがて、その見えるようになった目で何を見るようにされたのでしょうか。彼の人生を変えて下さったイエスが、彼の住むエルサレムの町で十字架につけられて殺される姿を彼はその目で目撃したはずです。聖書は残念ながらこのことについて何も触れてはません。しかしある意味で、彼の目が見えるようにされたのは、このイエスの十字架の出来事を目撃するためにであったとも考えることができます。なぜなら、彼はその十字架を見つめることで、自分に対する神の愛を確信することができたからです。私たちの人生にとって大切なこともこのイエス・キリストの十字架の犠牲を通して示された私たちへの神の愛を知ることです。なぜなら、その神の愛こそが私たちの人生における最高の宝となるからです。この神の愛についてパウロは次のように私たちに語っています。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38~39節)。
4.天国の学者
先日の毒麦のたとえでもお話したように、私たちは自分の人生の本当の価値を今はまだ、自分の目で確かめることができません。むしろ、私たちは自分の人生を毒麦のようなものと勘違いしてしまうこともあるはずです。イエスは今日の箇所でも網にかかった魚のたとえを通してこのことを取り上げています。漁師の引き上げた網の中にはよい魚も悪い魚も一緒に入っています。しかし、漁師はその違いを瞬時に判断することができます。イエスは神だけがそれをすることができることを私たちに教えてくださるのです。ですからここでも私たちが注意すべきことは、自分の人生の価値を簡単に自分で判断して、絶望したり、それを投げ出してしまうということをしてはならないことです。むしろ私たちは私たちの人生の本当の価値を知っておられる神に信頼して、その神から与えられた人生を大切に生きることが必要なのです。
そして、イエスは自分の目では本当のことを理解できない弱さを持つ私たちに対して、慰めに満ちた話を最後に語って下さっています。それが天の国のことを学んだ学者のたとえ話だと言えます。
「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」(52節)。
私たちには神の言葉である聖書が与えられています。ですから自分の倉とは私たちの持っている旧約聖書と新約聖書を意味していると言えます。そして、ここで語られている「天国のことを学んだ学者」とは救い主イエスに出会ってその人生を変えられたイエスの弟子たちのこと、そして私たちのことを表していると言えるのです。
旧約聖書を専門的研究するにはヘブライ語の知識が必要になります。また新約聖書を学ぶためにはギリシャ語の知識も必要となります。残念ながら、私たちにはそのような知識を十分に持っていないかも知れません。しかし、イエスはそれでも私たちは大丈夫だとここで教えてくださっているのです。なぜなら、イエスに出会って、その人生が変えられ、神と共に生きることができるようになった私たちにはいつも天におられるイエスから聖霊が送られるからです。そしてその聖霊はこの聖書の言葉を通して、神の隠された御心を私たちに教えてくださるのです。
そして今でもイエスが送ってくださる聖霊は、私たちの人生の本当の価値と、私たちの命を救うために御子の命までささげてくださった神の愛を私たちに聖書を通して教えてくださっているのです。…………… 祈祷 ……………
天の父なる神様。
あなたは御子イエス・キリストによって、私たちに隠された天の国の祝福を示してくださいました。この世の多くのものに心を奪われがちな私たちですが、何よりもあなたを求め、あなたにある喜びを日々新たにしてください。終わりの日にあなたが正しく裁かれることを覚えつつ、恐れではなく希望をもって歩ませてください。そして、この尊い福音を家族や隣人に喜びをもって伝える者としてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
【聖書研究のための設問】
1.畑で宝を見つけた人と真珠を見つけた商人には、どのような共通点と違いがありますか。
2.「喜びながら行って、持ち物をみな売り払った」(44節)という言葉は、神の国の価値について何を教えていますか。
3.網のたとえは、終わりの日の裁きについてどのような警告と慰めを与えていますか。
4.イエスが「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」(51節)と尋ねられたのはなぜでしょうか。
5.「新しいものと古いものを倉から取り出す家の主人」(52節)は、私たちに与えられたどんな祝福と使命を表していると言えますか。
6.あなたにとって「最も価値ある宝」は何ですか。この箇所は、日々の生活や信仰の優先順位をどのように見直すよう勧めていますか。