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2026.5.17「天におられる主と共に歩む」YouTube

マタイによる福音書28章16~20節(新P.60)

16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。

17 そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。

18 イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。

19 だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、

20 あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」


1.イエスの昇天

 イエスが復活されてから40日後、イエスは弟子たちの前から一人で天に昇られて行かれました。キリスト教会はこの出来事を記念して礼拝を行って来ました。復活祭の40日後は今年のカレンダーでは先週の14日の木曜日なります。しかし日本のようなキリスト教国ではない国では、次の日曜日、つまり今日の礼拝をイエスの昇天を記念する日として祝うことになります。私たちも、この礼拝でイエスの昇天とその出来事が私たちの信仰生活にどのように深く関わっているかをこの時間に少し学んでみたいと思います。

 今日の聖書の箇所ではイエスが天に昇られる直前にその弟子たちに残した言葉が記されています。マタイによる福音書はイエスのこの言葉だけを記し、イエスの昇天がどのようなものだったかについて詳しくは書き記していません。このマタイとは違いルカによる福音書はその最後の部分でイエスの昇天の出来事を簡単に記しています(ルカ24章50~52節)。また同じルカが記したとされる使徒言行録ではもっと詳しくイエスの昇天の出来事を最初の部分に記して、この後のイエスの弟子たちの活動を語り始めます。

「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、彼らは天を見つめていた」(使徒1章9~10節)。

 この表現を読むと、イエスが昇られた天は何か空の彼方、宇宙空間のどこかにあると考えがちです。かつて人類で最初にロケットに載って宇宙空間に到達した無神論者の宇宙飛行士は「これで、宇宙のどこにも神がいないことが証明された」と豪語したと伝えられています。これは天を空の上、あるいは宇宙空間のどこかと考える人の誤りから生まれた誤解だと言えます。聖書が語る「天」とは何度も申しますように、神のおられる場所と言う意味を持っています。ですから、「イエスが天に昇られた」という表現は、神の御子であるイエスが本来、おられるべき場所、つまり父なる神の元に戻られたと言うことを表しているのです。

 それではイエスはなぜ、このとき一人で天に昇って行かれたのでしょうか。イエスは今日の聖書の箇所で弟子たちに「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19~20節)と大切な宣教の使命を託されています。それではそもそもこの時の弟子たちは、このような大切な使命を遂行するふさわしい資格を持っていた人たちなのでしょうか。

 彼らはイエスが十字架にかけられたときに、自分たちの先生をそこに置き去りにしたまま逃げ出してしまうと言う前科を持つ人々ではなかったでしょうか。またその一人のペトロに至っては人々からの追及を恐れて、「イエスなど知らない」と三度もイエスを否認する過ちを犯していたのです。イエスはその弟子たちにわずか40日後にこのような大切な使命を与えられたことになります。そして御自分はその弟子たちを地上に残して天に帰ろうとされたのです。どうしてイエスはこのようなことができたのでしょうか。この40日の間に弟子たちはイエスから短期集中訓練を受けて全く新しい人間に造り変えられていたのでしょうか。マタイはこの箇所で、弟子たちが相変わらず不完全で弱さを持った頼りのない人物であったことを報告しています。

「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(16節)。

 マタイは十一人の弟子の中で誰が「疑う者」であったかについてその名前をくわしく記していません。それはその弟子たちの名誉を守るためだったのでしょうか。いずれにしても復活されたイエスに出会った弟子たちの中にはまだ「疑い」を取り去ることができない人がいたことをマタイはここで記しているのです。


2.疑う弟子たち

①信じたいからこそ、疑う

 この「疑う」という行為は聖書が求める「信仰」に対立するものと私たちは考えがちではないでしょうか。だからこそ信仰を強調する人たちは「疑ってはならない」と教えるのです。しかし、本当に信仰と疑いは相容れないものなのでしょうか。もし、その人が何かを信じたいと願わないなかったなら「疑い」は生まれて来なかったはずです。私の亡くなった母親は「人を信じてはいけない。他人を見たら泥棒と思え…」と言うのが信条でした。私も母からそう教わって育てられて来ました。そもそも人を信じなければ、何の問題も生まれまれないと考えるからでしょう。しかし、私たちは信じたいからこそ、「本当に大丈夫なのだろうか…」と言う疑いの心を一方で抱くことになるのではないでしょうか。

 それではこのとき、弟子たちはイエスの何を「疑った」のでしょうか。復活されたイエスを目の前にしておきながら、「この方は本当にあの死んだイエス御自身なのだろうか…」と疑ったのでしょうか。あるいは「自分たちは幻を見させられているだけではないか…」と弟子たちの中にはそう考える人もいたのでしょうか。いずれにしても、そのように弟子たちが疑ったのは、「イエスを信じたい」、「イエスの復活が事実であることを信じたい」と強く願っていたからに違いないのです。このような意味でこの地上ではまだ不完全な人間でしかない私たちにとって信仰と疑いはいつも同時に私たちの心に同居しているような関係にあると言えるのです。


②心が二つに分裂するペトロ

 聖書はこのことを証明するような善い例を紹介しています。マタイによる福音書はその14章でイエスが湖の上を歩いて弟子たちの乗る舟に近寄って来られたという出来事を紹介しています。このとき弟子たちはイエスに強いられてガリラヤ湖に浮かぶ舟に乗せられていました。そしてイエスだけはこの舟に乗らないで一人で祈るために山に登られたと言うのです。ところが弟子たちの乗る舟は、この後にガリラヤ湖上を吹き荒れる強風のために一晩中湖上を漂うような状態となってしまいます。そしてその明け方のことです。弟子たちは水の上を歩いて自分たちの乗る舟の方に近づいて来る人影を発見します。そして「幽霊だ」と慌てふためきだしたのです。しかし、弟子たちはやがてこの方がイエスだと知ることになります。ところがこの物語はなおも続いて行きます。今度は舟に乗っていた弟子のペトロが「自分も水の上を歩いてそちらに行かせてください」とイエスに願い出たからです。福音書はこのときの様子を次のように報告しています。

「イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた」(29~31節)。

 実はこのときのイエスの語った「なぜ疑ったのか」と言う言葉は今日の物語に登場する言葉と全く同じギリシャ語が使われているのです。このギリシャ語は本来「人の心が二つに分裂する」ことを表す言葉です。そしてこのときのペトロの状態はまさにこの言葉の通りに、心が二つに分裂してしまっていたと言えるのです。

 このとき湖上を歩いて自分たちのいる舟に近寄って来られたイエスを見て、ペトロは「自分もイエスの力によって同じように湖の上を歩きたい」と願い出ました。そしてそのペトロはイエスの言葉を信じて、最初は水の上を歩くことができました。ところが彼は次の瞬間に自分の周りに強い風が吹いていることに気づいてしまいます。そして恐怖を覚えたのです。イエスを信じて前に進みたいと願ったペトロは、もう一方で強い風を感じて「本当に大丈夫だろうか…」と疑ってしまった訳です。そして、その途端にペトロの体は湖の水の中に沈んで行ってしまったのです。

 そもそも、ペトロがイエスを信じて「自分も湖の上を歩けるのではなか…」と考えたからこそこの出来事は起こりました。ペトロがそんなことを考えなければ、ペトロは水の中に沈むと言う醜態を表すことはありませんでした。しかし今、私は「醜態」と申しましたが、この出来事は本当にペトロや他の弟子たちにとって意味の無い出来事だったと言えるのでしょうか。むしろそうではないからこそ、マタイはこの物語をわざわざこの福音書に記したのではないでしょうか。なぜなら、ペトロたちはこの出来事を通して、自分の弱さと、それでもその自分をしっかりと受け止めて、助け出してくださるイエスのすばらしさを知ることができたからです。

 私たちもイエスを信じなければ、その素晴らしさを知ることができません。「自分はまだ、疑いが解決できないから、信じることができない」。そう考えられる方もおられるかも知れません。しかしそれでは、その問題は何時解決できると言うのでしょうか。むしろ、今日の物語にも書かれているように、実際に復活されたイエスに出会った弟子たちでさえこの「疑い」の問題から解放されていませんでした。だからこそ、私たちは「疑い」を持ったままで、イエスを信じ、イエスに従う必要があると言えるのです。


3.疑いを解決するのは誰か

①近寄ってくださるイエス

 このように「疑い」と言う弱さを持つ弟子たち、彼らはこのままではイエスの前に堂々と出ていけないと思っていたかも知れません。自分たちにはまだイエスの弟子と呼ばれる資格がないと考えていたかも知れません。どの教会の礼拝に行っても出席者は後列の椅子の方から座る傾向があるようです。前の席は何時も空いているのに、わざわざ一番後ろに座りたがる人が多いのです。実は、こう言っている私もいつでも一番後ろの席を選ぶ傾向があります。一番、後ろに座るのは謙遜のあかしとも言えるからでしょうか。しかし、私個人のことを考えると、そこには謙遜さなど微塵もありません。ただ、前に座る自信がない、そんな思いが席を選ぶときにも表れてしまうのです。もしかしたら、このときの弟子たちも、弟子としての自信を失っていて、イエスに近寄ることができなかったのかも知れません。だから聖書は次のように語っています。

「イエスは、近寄って来て言われた」。

 ここではイエスの方が弟子たちに近寄って来られたと言うのです。説教者が講壇から離れて、一番後ろに座っている人の方に近づいて行ったら、きっとびっくりされるかも知れません。しかし、イエスが弟子たちのところに近寄ったのは人を驚かせるような単なるパフォーマンスからではありません。それは弟子たちを助けるためです。いまだに「疑い」を持つ弟子たちを、大切な世界宣教の使命を担えるようにしてくださるためにイエスは弟子たちに近づいたのです。ですからイエスはいつも自信がなくて後ろの方にこっそり座っている私たちにも近寄って来てくださるのです。そして私たちを助けてくださるお方だと言えるのです。

 以前、ある方に「是非、教会の礼拝にお出かけください」と誘ったところ、「わたしはまだ修行が足りませんので、もっとまともな人間になってから出席させていただきます」と丁重な言葉で断られたことがありました。その時私は「いつになったらこの人はまともな人間になれるのだろうか…」と心配したことがありました。


②聖霊を遣わしてくださるイエス

「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(18~20節)。

 この言葉はこれから神学校に入学して、牧師や伝道者を目指そうとする人にだけ語られているのではありません。この礼拝に集っている私たちすべての信仰者に語られている言葉であると言えます。人を弟子にすることは、もちろんその人を自分の弟子にすることではありません。すべての人をイエスの弟子にすること、それが私たちにイエスが命じてくださっていることなのです。

 この言葉を聞いて「わたしはこの使命に答えるだけの資格を持っていません」と私たちは躊躇して、しり込みするかも知れません。また、私たちは過去に犯した失敗を思い起こして、無理だと断念しようとするかもしれません。しかし、イエスはそのように考える私たちにも近寄ってくださるのです。

 次週は聖霊降臨の出来事を記念して礼拝をささげます。これはイエスが天に昇られた後、10日の後に弟子たちの上に約束されていた聖霊が降り、彼らが学んだことも聞いてこともない外国語で神の福音を語りだした出来事を記念する日です。この聖霊はイエスが私たちに一人一人に遣わされる霊であると言えます。このことについてイエスはヨハネの福音書で次のように語ったいます。

「わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る」(ヨハネ16章7節)。

この言葉の通り、今天におられるイエスは、ここでは「弁護者」と呼ばれる聖霊を私たちに遣わすと約束してくださっています。そのようにしてイエスは今でも私たちに聖霊を遣わすことで、私たちに近寄ってくださるのです。その上でイエスは今でも弱さを持ち、「疑い」つつもここに集まった私たちに働いて、私たちを導き、その使命を果たすことができるようにしてくださる方だと言えるのです。


…………… 祈り ……………

 主イエス・キリストよ。

 あなたは天に昇られ、すべてを治める主となられました。それにもかかわらず、今も私たちと共にいてくださることを感謝いたします。

 そして疑いの中にある私たちをも、あなたは退けず、使命を与えてくださいます。どうか、あなたの権威を信じ、あなたの臨在に支えられて、与えられた歩みを忠実に進むことができますように。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【聖書研究のための設問】

1.イエスと弟子たちはこのときどこに何をするために集まっていましたか。

2.イエスの前に集まった弟子たちには、このときどのような問題がありましたか。

3.このような弟子たちにイエスはどんな使命を与えられましたか。この使命を弟子たちに与える前にイエスはなぜご自分が持つ権威について言及されたのでしょうか。

4.イエスは「疑う」弟子たちをどのようにされましたか。イエスは今でも自分たちに与えられた使命を果たすことに自信が持てない者にどのようなことをしてくださると思いますか。

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