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  4. 4月19日「見えない主と共に歩む」

2026.4.19「見えない主と共に歩む」YouTube

ルカによる福音書24章13~35節(新P.160)

13 ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン離れたエマオという村へ向かって歩きながら、

14 この一切の出来事について話し合っていた。

15 話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。

16 しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。

17 イエスは、「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。

18 その一人のクレオパという人が答えた。「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

19 イエスが、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。

20 それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。

21 わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。

22 ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、

23 遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。

24 仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした。」

25 そこで、イエスは言われた。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、

26 メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか。」

27 そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された。

28 一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった。

29 二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。

31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。

32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。

33 そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、

34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。

35 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。


1.私たちの今を語る福音書

 人と言うものは歳を取るととかく昔の話をしたがる、自分も年を取って、そのことがよく分かるようになりました。まだ若かったころの昔話をしていると、とても活動的で生き生きとしていたその当時の時代が甦って来ると感じがするからでしょうか。必ずしもその当時の人生が全て良かった訳ではありません。むしろそのときはそのときなりの深刻な問題を抱えて苦しんでいたのに、そんなことはすっかり忘れて「昔は良かったな…」と思ってしまうのは私だけのことではないと思うのですが…。

 私たちが今、読んでいる福音書はイエスが復活して、昇天された後に書かれた書物です。当時、実際にイエスの十字架を自分の目で目撃し、またその復活の出来事にあずかることができた人々は次々とこの世を去って行っていました。ですから、この福音書を記した記者はイエスと弟子たちの物語を知らない新し世代に属する人々ためにその記録を残そうとしたと考えることができます。しかし、この福音書の記録の特徴は、イエスと弟子たちの時代の物語を記すことで「昔は良かったな…」と言った思い出に浸るためのではありません。むしろ、今も生きて私たちと共におられる主イエスと私たちとの関係を教えるためにこの福音書は書かれたと言ってよいのです。

 今日はルカによる福音書が記した二人の弟子と復活されたイエスとの出会いの物語を皆さんと共に学びます。私たちはこの物語を通して、今も実際に起こっている復活されたイエスと私たちとの出会いの出来事について思いを巡らして見たいのです。


2.エマオに向かう弟子に近づくイエス

 この物語は「ちょうどこの日」と言う言葉で始まっています。「ちょうどこの日」とはルカによる福音書24章の冒頭に記されているイエスの復活の出来事、イエスの遺体が埋葬された墓から無くなったと言う出来事が起こった日曜日を指しています。ここで登場する二人の弟子については、一人はクレオパ(18節)と言う名前が紹介されていますが、もう一人の名前は残念ながら明らかにされていません。おそらくこの二人の弟子は十二弟子には属していませんが、イエスがエルサレムに入城されたときに一緒にいた別の弟子たちだったと考えることができます。

 彼らはこのとき「エマオ」と言う町に向かって旅をしていました。実はこのエマオが現在ではどこにあったのかはっきり分からないと言われています。おそらく後世の人々の記憶に残るような大きな町ではなかったのはないでしょうか。ただはっきりわかるのは、この二人はエルサレムから町から離れようとしていたことです。そして彼らがここで自ら語っている言葉を読むと、彼らはエルサレムの町でイエスが十字架にかけられて殺されたこと、また三日目にその遺体が墓から無くなっていて、その墓に行った婦人たちから天使が語ったと言うイエスの復活の出来事を知らされていたことが分かります。

 ではどうしてこの二人の弟子は、この日にエルサレムの町から離れようとしていたのでしょうか。それは彼らがこの日曜日に起こった出来事を正直に言って受け入れることができなかったからではないでしょうか。今もイエスの復活の出来事を「古代人の思い込み」と批判する人々がいます。科学的な思考が身についている現在人には受け入れ難い出来事だと言うのです。しかし、聖書を読むと、その古代人でさえもイエスの復活の出来事を簡単には受け入れることができなかったと言うことが分かります。むしろ、それを疑うことが当時の人間に取っても当たり前であったと言えるのです。それでは、そのような私たちと同じ普通の思考を持った人間に過ぎない二人の弟子が、あるときから主イエスの復活を信じる者へと変えられたのでしょうか。彼らはどうしてイエスの復活の出来事を喜びを持って人々に伝える弟子となることができたのでしょうか。

 今日の物語はその問いに次のように答えています。それは彼らに「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた」(15節)からだと…。私たちが聖書を読み、教会に通うようになり、またイエスを救い主と信じることになった理由はそれぞれに様々であるかも知れません。自分が抱えていた深刻な問題を通して導かれたと言う人もおられるでしょう。また、子どものときから親に連れられて教会に行ったと言う方もおられるはずです。聖書はその理由はそれぞれに違っていても、まずイエス御自身が私たちに近づき、私たちと一緒にその人生を歩まれることでイエスと私たちとの関係が始まることをここで教えています。このとき二人の弟子たちは自分たちに近づいて来た方がイエス本人だということが「目が遮られていて」分からなかったと説明されています。もしかしたら私たちも皆、これと同じような経験をしているのではないでしょうか。「あの時、自分にはわからないかったけれど、確かに私の人生にイエスが近づいて来てくださった、だから私はこのように信じる者とされている」と言う体験を私たちもしているのです。


3.どこで探しているのか?

①復活されたイエスを見失った弟子たち

 ところで、この日曜日の日にエルサレムの町から逃げ出して、エマオの町に向かった二人の弟子はどうしてイエスの復活の出来事を受け入れることができずに、返って混乱の中に陥ってしまったのでしょうか。それは彼ら自身が語った証言を通してよく理解することができます。

 まず二人の弟子はイエスを「この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした」(19節)と認めています。しかし、彼らはその力ある預言者が、ユダヤ人の宗教指導者の陰謀により十字架にかけられて殺されてしまったと言うところに躓いているのです。なぜなら、力ある預言者がそのような悲劇的な最期を遂げるなど彼らの考えでは受け入れることができなかったからです。また彼らは「あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました」とも語っています。これは彼らがイエスを当時、イスラエルを植民地として支配していたローマ帝国の軍隊を打ち破って祖国を独立へと導く政治的な指導者と考えていたことを表しています。

 また、最も問題なのはイエスの死の後に三日後に起こった出来事に対する彼らの行動です。日曜日の早朝にイエスの葬られた墓に行った婦人たちはそこで天使に出会い「イエスは生きておられれる」という知らせを聞かされ、それを弟子たちに告げました。しかし、その弟子たちはその事実を確かめるために何をしたのでしょうか。生きているイエスを捜しに、その遺体が葬られた墓に行ったのです。だから、彼らはそこに葬られたはずのイエスの遺体が消えていることしか分かりませんでした。そして結局何が起こったのかを理解できないまま、混乱に陥ってしまったのです。これらの証言を聞くときに気づくのは弟子たちが十字架にかけられて死に、その三日目に甦られたイエスを全く見当違いのところで捜しているという事実です。

 こんなお話を聞いたことがあります。ある晩、道の街灯の下で必死に何かを捜している人がいます。たまたまそこを通りかかった人が「どうしたのですか」と尋ねると、「落とした家の鍵を捜しています」と言う答えが返ってきました。「それはおこまりでしょう」と言う具合で、結局その通りすがりの人も加わって鍵を捜すことになりました。ところが、二人が一生懸命に捜しても鍵は全く見つかりません。そこで通りすがりの人は「本当にここで鍵を失くしたのですか」とその人に確認しました。するとその人は意外にも首を横に振ってこう答えたと言うのです。「いえ、失くしたのはもっと向こうの暗がりのあたりです。でも、ここの方が街灯も点いていて捜しやすいと思ったので、ここを捜しているのです…」。これではいくら落とし物を捜しても失くしたものを見つけることはできません。

 弟子たちは「イエスは生きておられる」という知らせを聞いたのに、こともあろうに死者を葬る場所でしかない墓にイエスを捜しに行きました。イエスが十字架にかかって死んでしまわれたことも自分たちの常識で判断したために、全くそのイエスの死の意味を理解することできなくなかったのです。


②イエスが示して下さった方法

 イエスはそこで私たちに復活されたご自分を、またその死の本当の意味を見つけ出すことができる方法を教えています。それは聖書の言葉を通してです。この出来事が起こった当時は聖書と言えば、私たちが普段「旧約聖書」と呼んでいる書物しか存在していませんでした。だからイエスはこの旧約聖書を読めば、イエスの死と復活の出来事を正しい意味を見つけ出すことができると教えられたのです。

 しかも、ここで興味深いのはイエスが示してくださった聖書の読み方です。ご存知のように旧約聖書はキリスト教徒だけではなくユダヤ教徒やイスラム教徒も信じる聖典と言えます。それでは、彼らの読み方と私たちキリスト教徒の聖書の読み方はどこが違うのでしょうか。ポイントはここでイエスが教えてくださった方法です。それは聖書の言葉を救い主イエスを証している書物として読むと言うことです。確かに聖書には様々物語や教えが語られています。しかし、私たちにとって大切なのは、そのすべての出来事をイエス・キリストとの関連を通して読み解くと言うことです。もちろん、これは新約聖書を読むときにも同じであると言えます。この方法に従えば、私たちは聖書の言葉を通して、復活されたイエスと出会い、またその死の意味を知り、そこから豊かな恵みを受け取ることができるようになるのです。


4.心の目が開かれた二人

 さて、道の途中で知らない旅人と出会い、その人から聖書の話を聞いた二人の弟子は、その後、大きな変化を遂げて行きます。このことについては彼ら自身が後で次のように証言しています。

「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(32節)。

 これはまぎれもなく、彼らが神の御業、つまり聖霊の御業を体験したことを証しています。今でも「聖霊体験」と言うと病気の癒しとか、異言と言った特別な体験だけを強調する人々がいます。しかし、ここで分かるように聖霊のもっとも重要な働きは御言葉を通して私たちをイエス・キリストに導くことです。この聖霊が働くことによって、私たちはエマオの二人の弟子たちと同じように、今でもイエスが私たち一人一人に語り掛けてくださった言葉として聖書の言葉を聞くことができるようになるのです。

 さて、私たちがここで最後に注目したいのは、この二人の弟子の目が開かれて、自分たちと共におられる方がイエスであるということを悟ったときの状況です。聖書は「二人の目が開け」(31節)とこの理由を語っています。これは神的受動態と言ってその出来事が神御自身によって起こされたことを示す表現を使って記されています。二人の目が開いたのは彼らの努力や修行の結果ではありません。神が彼らの目を開いて、イエスを分かるようにしてくださったのです。

 ただ、興味深いのはこのことが「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(30節)時に起こったと言うことです。これは明らかにイエスが弟子たちと最後の晩餐をされたときを再現される行動です(ルカ21章14~23節)。そしてこの最後の晩餐でイエスが行われたしぐさを私たちは毎月行われる聖餐式を通してあずかることができるのです。つまり、私たちが毎月あずかっている聖餐式はこの物語に登場する二人の弟子と同じように、私たちの信仰の目が開かれて、イエスが私たちと今も共に生きてくださっていることを確かめる場所だと言うことができるのです。つまり言葉を替えて言えば、聖餐式は復活されたイエスと私たちとの間に繰り返し交わされる出会いの場所だと言うことできるのです。

 この後すぐに聖書は「イエスの姿が見えなくなった」と語っています。ここで間違ってはいけないのは、これは「イエスがいなくなった」と言っているのではありません。なぜなら、復活されたイエスはいつも私たちと共に生きてくださり、決して私たちから離れることはないからです。つまり、神がこのとき開いてくださったのは、二人の弟子の肉眼の目だけではなく、心の目であったと言うことがこのことからも分かります。なぜなら彼らは心の目、信仰の目が開かれたからこそ、イエスの姿を彼らが肉眼で見ることできなくても、彼らは喜びに満たされ続けることができたからです。そして、この日曜日の日に喜びを分かち合うために、二人の弟子は元来た道、エルサレムへと急いで戻って行きました。だから私たちの今ささげている日曜日の礼拝は、このようにして神に心の目が開かれた者が集い、復活されたイエスとの出会いの喜びを分かち合う場所でもあると言えるのです。


…………… 祈り ……………

 私たちの主イエス・キリストを復活させてくださった主なる神よ。

 私たちはしばしば、あなたが共におられるのに気づかず、失望や不安の中を歩んでしまいます。どうか私たちの心の目を開いてください。御言葉によって心を燃やし、あなたの臨在に気づくことができるようにしてください。

 悲しみの中にあるときも、あなたがそばにいて導いておられることを信じさせてください。そして、あなたに出会った喜びを、他の人にも分かち合う者としてください

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

学びのための設問

1.二人の弟子はどのような気持ちでエマオへ向かっていましたか。

2.彼らはイエスについてどのように語っていますか(21節に注目)。

3.なぜ彼らはイエスに気づかなかったのでしょうか(16節)。あなたにも、その時には気づくことができなかったが、後になって「神が共におられた」と気づいた経験がありますか。

4. イエスはここで彼らにどのように関わっておられますか(問いかけ・説明)。

6.彼らの目が開かれたのはどの瞬間でしたか。私たちは日常の信仰生活の中で、どんなときに復活されたイエスが共にいてくださることに気づくのでしょうか。

7.その後、彼らの行動はどのように変わりましたか。

8.この聖書の物語は、礼拝(説教・聖餐)への私たちの姿勢をどのように変えると思いますか。

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