2026.3.8「誰が聖餐式に招かれているのか」YouTube
コリントの信徒への手紙一11章23~29節(新P.314)
23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、
24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。
26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。
27 従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。
28 だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。
29 主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
ハイデルベルク信仰問答書
問81 どのような人が、主の食卓に来るべきですか。
答 自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです。しかし、悔い改めない者や偽善者たちは、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。
問82 それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか。
答 いいえ。なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです。それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって閉め出す責任があります。
1.自分にはその資格があるのか
私が教会に通いはじめた頃に抵抗感を感じたのはそこで行われていた聖餐式には信者でないものは参加できないということでした。教会は「どなたでも礼拝においでください」と招いているのに、「信者でない人は参加できない」と制限を加えるのはおかしいではないかと思ったからです。この私の抱いた誤解は後になって、聖餐式の意味を理解したときに解けました。しかし、おそらくその理由を知らない人は今でも私と同じような誤解を抱いているかも知れません。
聖餐式は単なる食事ではありません。通常の食事は空腹を満たし、あるいはおいしいものを食べて楽しむことが目的であると言えます。その点で言えば、聖餐式のパンやぶどう酒では私たちの空腹を満たすことはできませんし、それが特に美味しいわけでもありません。
聖餐式の意味はそれにあずかることによって私たちと私たちの救い主イエスとの関係を確かめるというところにあります。だからこそ、まだこの救い主イエスを信じていない人が聖餐式に参加しても意味がないと言えるのです。ですからもし、「自分も救い主イエスを信じて生きたい」と思われる方がおられるなら是非、洗礼を受けて、この聖餐式に参加していただきたいと、聖餐式のたびに司式者は語り掛けますし、またその方々のためにも祈っているのです。
さて私が晴れて教会で洗礼を受けて、とてもうれしかったのはやはり教会の兄弟姉妹と共にこの聖餐式に参加できる資格を得たことでした。実はその頃の思い出なのですが、私が通っている教会に遠くから時々礼拝にやって来る一人の青年がいました。もともと、彼はその教会で洗礼を受けたのですが仕事の関係で転勤して「他住会員」となっていたのです。年齢が私と同じくらいなので、自然と親しくなり、趣味や信仰のことなどをときどき話す機会が生まれました。ところがある日の礼拝で聖餐式をしているとき、教会の長老が聖餐式のパンとワインをその青年の前に来て渡そうとすると、彼はとても悲しい顔をしながらそれを手で遮って、受け取ろうとしなかったのです。私はそれを見て驚いてしまいました。パウロは聖書の中で次のような言葉を語っています。
「従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです。主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(コリント一11章27~29節)。
きっと彼は自分がこの聖餐式にあずかるにはふさわしくない信仰生活を送っていると判断したのかも知れません。私は彼を見ていてそう感じました。そして次に私が考えたのは「それでは自分はどうなんだろうか…」、「彼がふさわしくないとしたら自分はなおされではないか…」というような疑問です。
歴史を調べると宗教改革の後、カトリック教徒とプロテスタント教徒が争った30年戦争などによって人々の生活が大変荒廃した時代がありました。その当時、せっかく教会の礼拝には出席しても、この聖餐式にあずかろうとしない人々が沢山現れたと言うのです。「自分は聖餐式に参加できるような資格がない」と多くの人が思ったからではないでしょうか。おそらく彼らがそのように考えた背景にはさらに先ほどのパウロの勧めの中で語られている続きの言葉が影響しているのかも知れません。
「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」(30節)。
不信仰な者がこの聖餐式にあずかれば、体が弱くなり、また病気となり、さらにはそれが原因で死に至るような災いに会うと語られています。人々はこの言葉を恐れたのかも知れません。だから多くの人は怖くなって、礼拝に出席しても聖餐式に参加できなくなってしまったと言うのです。
今日の信仰問答はこの聖餐式に招かれる資格を持った人は誰なのかと言う説明が語られています。そしてハイデルベルク信仰問答は私たちが聖書の言葉を正しく理解した上で、この聖餐式の恵みにあずかることができるようにと教えていると言えるのです。
2.招かれているのは誰か
私がまだ小学生の頃のお話です。友達の家に遊びに行くと、ちょうどその友達の誕生パーティが開かれていたところに出くわしました。そこには自分が良く知っている何人かの同級生がその友達と共に座っていました。そして私はそこではじめて自分がそのパーティーに招かれていない人間だったと言うことを知ったのです。幸い、その友人のお母さんは慌てて私の分の席を用意してくれました。しかし私は何かとても恥ずかしかったことを思い出します。
主イエスはこの聖餐式にどのような人を招いてくださっているのでしょうか。信仰問答は「自分の罪のために自己を嫌悪しながらも、キリストの苦難と死とによってそれらが赦され、残る弱さも覆われることをなおも信じ、さらにまた、よりいっそう自分の信仰が強められ、自分の生活が正されることを切に求める人たちです」(問81)とそのことについて説明しています。
この言葉から考えるとこの聖餐式に招かれているのは「自分は悲惨な罪人だ」とはっきり自覚している人です。イエスは聖書の中で「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)と語っています。このようにイエスは御自分が「罪人を招くために」来られたことをはっきりと語っているのです。
また、病人が医者に行くのは「病気を治したい」と願っているからです。世間では「病床利得」と言う言葉が使われることがあります。病気である方が何らかの得をする、だから「健康になたい」と口では言いながら、無意識に病気のままであることを願って、行動してしまう人たちのことを言う言葉です。確かに「自分は罪人のままの方が気楽でよい…」と考える人は、このイエスの招きに答える必要はないはずです。
また、さらに大切なのはその人が自分を招いてくださっている方についてどのように信じているかです。本当に病を癒してほしいと考える人は、それを治すことができる能力を持った名医のところにいくはずです。藪医者と言われる人のところに大切な自分の治療を任せることはできないはずです。聖餐式に招かれている人は、イエスだけが自分を悲惨な罪人の状態から救うことがおできになると信じている人たちだと言えるのです。自分には自分の問題を解決できる力なくても、このイエスなら自分を完全に救う力を持っておられると信じているのです。
教会で水曜日の夜に行なっている読書会で読んでいるテキストの中で、自分の罪の重さに打ちひしがれて苦しんでいる人に対して宗教改革者たちがどのような牧会を行ったかが解説されているところがありました。この部分を読んで興味深かったのは、このような問題で苦しむ人の特徴は、自分のことを神でも救いようのない深刻な罪人だと思い込んでいるところです。つまり、ここで問題となるのは、自分が犯した罪の大きさではないのです。問題なのはその人が自分のような罪人を救う力を神は持っていないと思い込んでいるところにあるのです。
大切なことはキリストの十字架によってすべての罪が赦されていることを信じること、またそのキリストが救うことができない人はこの世に誰一人存在しないことを信じることです。そして聖餐式はキリストに対してそのような信仰を持っている人が招かれていると考えることができるのです。
3.キリストを慕い求める信仰
①教会に与えられている「鍵の務め」
このようにハイデルベルク信仰問答はこの聖餐式に招かれている人がどういう人なのかということを説明した後に、次のような問いを続けて取り上げています。
「それでは、その信仰告白と生活によって不信仰と背信とを示している人々でも、この晩餐にあずかれるのですか」(問82)。
ここで言う「不信仰と背信」とは問81の答えから考えると、第一に自分を罪人だと自覚していない人のことです。そして自分はその罪から救われる必要を感じていない人、さらには救い主イエスに対して、「自分を救ってほしい」などという願いを持っていない人のことを指しています。おそらくこのような人が聖餐式に参加する目的は、自分の罪のためではなく、人がやっているから、そのまねをして見せかけの信仰生活を送っている人のことだと言えるのです。
しかし、信仰問答は教会がこのような人をそのまま放置してはならないと教えています。「なぜなら、それによって神の契約を侮辱し、御怒りを全会衆に招くことになるからです」とその理由を説明しています。神の約束を大切にする人は、イエスが私たちのために与えてくださった聖餐式も大切しようとするはずだからです。ですから信仰問答は「それゆえ、キリストの教会は、キリストとその使徒たちとの定めに従って、そのような人々をその生活が正されるまで、鍵の務めによって閉め出す責任があります」と語っています。ここで語られている「鍵の務め」と言うものについてはこの後の問83から85で詳しく学びたいと思います。
②二人の盲人の信仰
そこで私たちはこのお話の最後に、もう一度「自分は本当に聖餐式に参加してよいのか」と言う私たちの抱く疑問について考えてみたいと思うのです。先週、私が読んでいる聖書日課の中で「二人の盲人を癒やす」(マタイ20章29~34節)と聖書の伝える物語を読みました。あるとき、大群衆を従えたイエスがエリコの町を出ようとしたときのことです。そこに二人の目が見えない盲人が登場します。彼らはイエスが自分たちの近くを御通りになると聞いて「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と声の限りに叫び続けたと言うのです。するとたくさんの群衆が彼らを叱りつけて黙らせようとします。それはどうしてでしょうか。群衆はこの二人の盲人がイエスに近づいたり、ましては話しかけて、イエスから相手をしてもらえるような資格を持っていないと考えたからです。
しかし、二人の盲人は人々からそのように考えられ、そのために制止されたとしても、ますます叫び続けたと言うのです。なぜなら彼らにとっては自分に資格があるのか、無いのかなどは全く関係なかったからです。ただ二人の盲人は「イエス様に自分の目を開けて、見えるようにしていただきたい」と願ったのです。そして彼らは「イエス様ならきっとおできになるに違いない…」。そう信じていたからこそ二人はイエスに向かって叫び続けたのです。そしてイエスはこの二人の叫びを聞いてくださいました。その上で彼らの求めに耳を傾け、その通り、彼らが見えるようにしてくださったと聖書は伝えています。
聖餐式に参加する私たちに求められている信仰とはこのようなものではないでしょうか。「聖餐式に参加したら自分が弱くなって病気になり、死んでしまうかも知れない…」。そんな心配は無用なのです。なぜなら、私たちは元々、悲惨な罪人であり、その魂の病のために永遠の死の刑罰を免れ得ない者たちだったからです。その私たちをイエスは十字架にかかってくださって救ってくださったのです。だからそのイエスにさらに近づいて、もっと恵みをいただきたい、その恵みによって信仰生活を歩みたいと願う者は誰でもこの聖餐式に参加したいと思うはずです。
そしてイエスはそのような私たちを憐れんで二人の盲人に「何をしてほしいのか」と問われたように、私たちの信仰の願いにも耳を傾けてくださるのです。だから私たちはイエスが私たちを憐れんで、私たちを助けてくださることを信じて、これからもこの聖餐式に参加したいと思うのです。
…………… 祈り ……………
恵み深い主よ。
あなたは私たちのような罪人を退けず、十字架によって受け入れてくださいました。私たちは感謝をもってあなたの恵みに応えます。どうか、私たちを清め、信仰を強め、あなたにふさわしい歩みへ導いてください。キリストの体なる教会を守り、愛と聖さにおいて成長させてください。
主イエス・キリストの御名によって。アーメン。
学びのための設問
1.まずハイデルベルク信仰問答の問81と82の本文を読んでみましょう。
2.問81は、「主の食卓に来るべき人」について、どのような三つの特徴を挙げていますか。
3.問82は、なぜ不信仰な者が晩餐に参加することを制止する必要がると言っているのですか。
4.主の食卓にあずかる人が「自分をよく確かめる」とは何を意味していると思いますか。
5.教会に与えられている「鍵の務め」の目的は何ですか。
6.私たちが主の晩餐にあずかろうとするときには、どのような心で備えるべきでしょうか。