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2026.3.29「十字架に現れた神の救い」

マタイによる福音書27章45~54節(新P.58)

45 さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。

46 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

47 そこに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「この人はエリヤを呼んでいる」と言う者もいた。

48 そのうちの一人が、すぐに走り寄り、海綿を取って酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒に付けて、イエスに飲ませようとした。

49 ほかの人々は、「待て、エリヤが彼を救いに来るかどうか、見ていよう」と言った。

50 しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。

51 そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、

52 墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。

53 そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。

54 百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。


1.十字架に向かう主イエスとそれに関わった人々

①ユダヤ人の宗教的指導者たちとイスカリオテのユダ

 今日から教会のカレンダーでは受難週を迎えます。この受難週はイエスの受難と十字架の死を思い起こし、来るべきイースターの喜びを準備する受難節の仕上げのときと言えます。そしてこの受難週の最初の日曜日には昔から「棕櫚の主日」と言う呼び名が付けられているのです。この日、イエスは群衆の歓呼に迎えられながらエルサレムの町に入城しました。この時、群衆がイエスの歩まれる道に自分の着ていた服や木の枝を道に引いたことからこの日を「棕櫚の主日」と呼ぶようになりました。カトリック教会では今でもわざわざこの日の礼拝に棕櫚の枝を準備すると言うことを聞いたことがあります。いずれにしても群衆の大歓声に迎えられた主イエスがわずか数日の後に十字架上で悲惨な死を遂げるということは誰も予想がつかなかった出来事だったと言えるのです。

 この出来事を記した福音書を読むとイエスを十字架にかけて殺そうとしたのは当時のユダヤの宗教的指導者たちであったことが分かります。彼らはイエスの存在が自分たちの地位を危うくすると恐れて、邪魔なそのイエスを殺してしまおうと考えたのです。しかし、彼らのこの計画だけではイエスを殺すことはできませんでした。ですから福音書はイエスの十字架の死が様々な人々の思いが重なることで実現して行ったことを私たちに教えています。

 まず、イエスの弟子の一人であったイスカリオテのユダがユダヤ人の指導者たちの計画を実現させるために大きな役目を果たします。彼は銀貨30枚でイエスを売り渡すと言う約束をユダヤ人の宗教的指導者たちと交わしました。このことから考えるとユダは大金を手に入れたかったためにイエスを裏切たかのように思えます。しかし、聖書を読み進めるとこのユダはイエスに有罪判決が下ると後悔し、その金をユダヤ人の宗教的指導者たちに返そうとしています。そして「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました」(マタイ27章4節)と語り、自分の手に入れた金をすべて神殿に投げ込んだ末に、首をつって死ぬと言う結末を迎えています。このことを考えると、裏切り者と呼ばれるユダでさえも、本当にイエスが死んでしまうなど考えてもいなかったような気がします。


②ペトロを始めとするイエスの弟子たち

 さて、主イエスがこのイスカリオテのユダの裏切りによって、いとも簡単にユダヤ人の宗教的指導者たちに捕らえられてしまったのは、イエスを守るべきはずの他の弟子たちが肝心な時に逃げ出しまったからであると言えます。彼らはイエスと一緒に死のうという覚悟を持ってエルサレムの町までやって来たはずなのに(ヨハネ11章16節)、簡単にイエスを見捨てて逃げてしまったと言うのです。このことを考えると、彼らはご自分の受難を予告したイエスの言葉を理解できなかった上に、自分たちの本当の弱さえも理解できていなかったと考えることができます。

 また特にこの弟子たちの代表格ともいえるペトロは、イエスの逮捕後にイエスが連れて行かれた大祭司の館までこっそり着いて行っています。ペトロは逮捕されたイエスが「このままで終わるはずがない」と考えていたのかも知れません。だからその後の様子を窺おうと大祭司の館までやって来たのです。しかし、ペトロのこの予想は大きく外れたしまいます。その上で彼はこの場所でイエスのことを「知らない」と公に否認すると言う大失敗を犯してしまうのです(マタイ26章69~75節)。

 キリスト教会ではイエスが十字架にかけられた際に語られたとされる七つの言葉を特別に大切にして来た歴史があります。その七つの言葉の最初の言葉が「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23章34節)と言うものです。イエスの十字架の死は「自分が何をしているかわからない」という様々な人間たちの弱さと罪の結果であったことを聖書は私たちに教えています。しかし、同時にこのイエスの十字架の出来事は、その弱さと罪を持った私たち人間を救い出すために神が計画された出来事であったとも言えるのです。


2.イエスの沈黙

 先ほど申しましたようにイエスの死を一番に望んだのはユダヤ人の指導者たちでした。しかし実はその彼らには当時イエスを死刑にするという権限は全く与えられていませんでした。それは当時のユダヤが地中海一帯を支配する広大なローマ帝国の植民地の一つとなっていたからです。犯罪者に死刑判決を下す権限はローマ帝国にだけ認められていたのです。そこで彼らはイエスの身を、彼に死刑の判決を下すことができるローマの総督ピラトに委ねようとしました。しかしローマの法律にはユダヤ人たちが問題とした「イエスが神を冒涜する」という罪は存在しません。そこで彼らはピラトに「イエスはローマ帝国に反乱を企てようとした」と訴えた上で、彼に死刑の判決を下すことを要求したのです。

 福音書が描く総督ピラトはユダヤ人たちを恐れて自分では何も決めることができない弱弱しい政治家として描かれているように見えます。これはこの福音書が書かれた時代の教会がローマ帝国から余計な誤解を受けることがないようにと考えたため、だからピラトをこのように描くことでそのローマとの関りを描くことを避けたと聖書学者は説明しています。しかし実際のピラトは民衆の命を簡単に奪うような残忍な性格をもつ指導者として恐れられていたことが知られています(ルカ13章1節)。

 イエスを裁こうとするときにピラトが疑問を感じざるえなかった点は、裁かれる立場にあったイエスの沈黙であったと言えます。なぜなら、人はもし自分が無実の罪、つまり冤罪の被害者となったのなら、懸命になってその無罪を裁きの座で訴えるはずだからです。しかしイエスはそれを全くしなかったのです。イエスはこの裁きの場で、「お前がユダヤ人の王なのか」と言うピラトの問いにただ一言だけ「それはあなたが言っていることです」とだけ語っています。イエスは自分が不利な立場に立たされていると知りながら沈黙を守り通してのです。おそらくピラトはイエスのこの沈黙と同時に、なぜユダヤ人の指導者たちが「この男の存在をこれほどまでに恐れるのか」と言うことにも疑問も抱いたはずです。ピラトにはイエスが何の力も持たない一人の人間としか思えなかったからです。結局彼はその疑問を解消することができないまま、イエスを死刑にし、その代わりに実際にローマ帝国への反逆を企てた犯罪者であるバラバを釈放することになります。それはピラトがユダヤの地でこれ以上の騒ぎが起これば、政治家としての自分の地位が危うなると考えたからです。


3.十字架から降りないイエス

 この後、福音書はイエスがローマ兵たちからの侮辱を受けた後に十字架につけられる次第を報告しています。このとき、二人の強盗と共に十字架にかけられたイエスに対して、その場を通りかかった人々が次のように語ったと言われています。「神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」(40節)。そして、イエスをこの十字架にかけた張本人たちであるユダヤの宗教的指導者たち、つまり「祭司長たちも律法学者たちや長老たち」もイエスを侮辱して次のように語っています。「他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。」(42節)。

 これらの言葉はイエスに対して、自分自身を救うことで自分が神の子であることを証明して見るようにということを語っている点で共通しています。つまり、彼らの考えではイエスが何もすることができずに十字架上で無力な死を遂げて行くのは、イエスが神の子ではないこと、神から遣わされた救い主ではないことが証明していると言っているのです。

 聖書の解説者たちによればこれはイエスがかつて荒れ野で悪魔から受けた誘惑の言葉と同じであると言っています。この時に悪魔はイエスを神殿の屋根の上に立たせて「神の子なら飛び降りたらどうだ」と語りました(マタイ4章5節)。イエスが神の子であるなら、神がその命を守ってくださるはずだと悪魔はイエスに語ったのです。このときの「降りる」と、十字架から「降りる」と言う言葉は全く同じ単語が用いられています。荒れ野の誘惑のときにイエスは悪魔に対して「神を試してはならない」と言う言葉でこの誘惑を退けられています。福音書は十字架上のイエスの上にも、この悪魔の誘惑が向けられていたことを私たちに教えようとしているのです。

 ここで大切になってくるのは、聖書はイエスが十字架から降りないで、その命をささげられたことを通して、イエスが神の子であることが証明されたと証言していることです。なぜなら、このイエスの十字架の死を通して私たちすべての人間が救われるという神の計画が成就されたからです。


4.神の沈黙

①神の沈黙の意味

 さてマタイによる福音書は「三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である」と報告しています(46節)。そしてイエスが絶体絶命の窮地に立たされて神に答えを求めているのに、天の父なる神はイエスのこの問いかけに何もお答えにならなかったことが記されているのです。かつてイエスが洗礼者ヨハネの元で洗礼をお受けになられたときも(マタイ3章17節)、また山の上でイエスの姿が栄光に輝いたときも(マタイ17章5節)、天におられる神は雲の中から語り掛けてくださいました。しかし、天の父なる神はこの場面では沈黙を守られているのです。

 先日、テレビを見ていたら思想界の若松英輔氏が大変興味深い話をしていました。人格を持つ相手はこちら側の問いに対して、答えを与えるだけではなく、ときには沈黙する時があると言うのです。そしてその反対にコンピュータのAIは必ずこちら側の問いかけに何らかの答えを返して来る点で違っている語っていました。最近はAIに自分の悩みを相談する人が増えたと聞いています。もしかしたら、牧師のような人間と違って、適切で気の利いた答えをAIの方が返してくれるからかも知れません。

 私たちにとって便利なAIとは違い、私たちの神は私たちの都合に従っていつでも適切な答えを与えてくださる方ではないのです。しかし、それは私たちのことに関心を持っていないからでも、関りを持ちたくないからでもありません。私たちを愛してくださる神は、私たちのために沈黙を守られることがあると言えます。十字架上でのイエスに対しての父なる神の沈黙はイエスを愛し、またそのイエスを通してすべての人間を愛する神の御心がそこに示されていると言えるからです。


②神への信頼を歌う詩編22編

 実はこの十字架上での「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言うイエスの言葉はその時に突然の思い付きで語られた言葉ではなく、旧約聖書の詩編22編の1節の言葉の引用だと考えられています。また、この同じ詩編22編の8~9節には「わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る。「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう」とも語られています。この言葉はそのまま十字架のイエスに向けられた人々の言葉と同じ内容となっているです。また同じ詩編の18~19節には「骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺めわたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」とも語られています。これもイエスの十字架刑を執行したローマ兵が「くじを引いてその服を分け合った」(35節)出来事に該当しています。このように読むときこの詩編22編は十字架のイエスの姿を預言するものであったと考えることができます。また、イエス自身もこの詩編の言葉を十字架上で語ることで、自分の死の意味を十分に理解していたと考えることができるのです。

 この詩編22編の言葉は次のような言葉で結ばれています。

「わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう。」(30~32編)

 このようにイエスが十字架上で語られた「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と言う言葉がこの詩編22編の言葉だと考えるとするなら、イエスの言葉は孤独な死を待つ者が語った絶望の言葉ではなくなります。むしろ、十字架の上でも最後まで父なる神を信頼するイエスの心を表したものと言えるのです。

 そしてこの詩編が語るように、この十字架の場面でイエスの叫びに沈黙を守られた父なる神も、イエスを見捨てたのではなく、イエスの復活を通して命を与えるために共に働いておられたと考えることができます。

 このようにイエスの十字架の死と言う出来事は、自分で自分がしていることが分からない愚かな人間の行動にも関わらず、その私たち人間を愛して、私たちを救うために神がなして下さった愛の御業であることを私たちは知ることができるのです。神は私たちに対する愛は安易な言葉の応答ではなく、イエスの沈黙を通して、また父なる神の沈黙を通して、私たちの上に実現してくださったことを今日の聖書は私たちに教えているのです。


…………… 祈り ……………

 恵み深い神さま。

 イエス・キリストが私たちのために十字架にかかってくださったことを感謝します。私たちがこの十字架の出来事で示されたあなたの愛と恵みを受け取り、あなたに対する感謝の心を持って、これからもあなたに従って歩む者としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書研究のための設問

1.総督ピラトはなぜイエスを無罪と知りながら死に引き渡したのでしょうか。

2.犯罪者バラバの釈放は、私たちに何を語っていますか。

3.十字架上のイエスに向けられた人々の嘲りの言葉にはどのような意味を持っていますか。

4.イエスはどうして「神に見捨てられる」ことになったのでしょうか。

5.神殿の幕が裂けたことは、私たちの信仰生活にどう関係しますか。

6.この出来事を目撃した百人隊長の告白はなぜ重要ですか。

2026.3.29「十字架に現れた神の救い」