2026.3.22「ラザロの死と命の主」
ヨハネによる福音書11章1~6、38~45節(新P.188)
1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。
2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。
3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。
4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」
5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。
6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。
38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。
39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。
40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。
41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。
42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」
43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。
44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。
1.イエスが誰であるかを証明するしるし
新約聖書に収められている四つの福音書、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの中で私たちが今日の礼拝で読んでいるヨハネは特に他の三つの福音書とは違う特徴を持っています。ヨハネによる福音書は福音書の中で一番最後に記されたものと考えられています。ですから、おそらくこの福音書を書いたヨハネは他の三つの福音書を知っていたと考えることができます。そのような意味でヨハネは他の福音書が触れていないイエスに関する真理を自分の書いた福音書を通して伝えたいと思ったのかも知れません。
今日の箇所ではイエスが死んだラザロという人物を生き返らせたと言う奇跡の物語が記されています。そしてヨハネはこのようなイエスのなされた奇跡を「しるし」と言う言葉を用いて表現しています(ヨハネ20章30節)。イエスがなされた奇跡は単に人々を驚かすような出来事と言う意味ではなく、イエスが誰であり、この地上に何をするために来られた方なのかを教えている「しるし」と表現するのです。
この世の裁判ではそこで主張される内容が真実であるか、どうかを確かめるために必ず証拠と言うものを示す必要があります。イエスのなされたしるしは、イエスが神の子であり、私たちのためにこの地上に来てくださった救い主であることを示す確かな証拠であるとヨハネは言っているのです。それでは今日の物語で取り上げられているラザロの生き返りと言うしるしは、イエスについての何を私たちに示す確かな証拠であると言えるのでしょうか。
2.ラザロを愛したイエス
ルカによる福音書の10章にはマルタとマリアという姉妹のお話が記されています。働き者の姉マリアと、静かにイエスの話に耳を傾けた妹マリアのお話です。このお話を読んだ人の多くは「自分はどちらの人物に似ているのだろう…」と考えるようです。皆さんはどうでしょうか。皆さんはどちらの姉妹に似ていると思われますか。
今日の物語ではこの姉妹にもう一人ラザロという兄弟がいたことが判明しています。このラザロは二人の姉妹とは違いあまり目立たない存在であったのでしょうか。先ほどのルカの伝える姉妹の物語には登場していません。また聖書はこのラザロが何をしていたのか、またどのような人物であったのか、そしてさらには彼がどんな言葉を語ったかについて一言も記していないのです。ただ、ラザロは瀕死の病気となり、人々の看病の結果も空しく息を引き取り、その遺体は墓に葬られたことを伝えているだけなのです。
一方、彼に比べてマルタとマリアの姉の行動や発言を福音書はこの物語の中でも詳しく伝えようとしています。まず、この姉妹は病に犯されたラザロを助けてもらおうとしてイエスの元に使いを遣わしています。そしてイエスに次のように告げさせたと言うのです。「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(3節)。二人の姉妹はイエスが自分たちの兄弟であるラザロを愛していたこと知っていました。そしてそこに希望を持とうとしたのです。「こう伝えればイエス様は必ずご自分が愛しているラザロを助けにすぐにでもやって来てくださる」と考えたのです。
しかし、イエスは彼女たちの予想に反して、すぐにラザロの元に行こうとはされませんでした。なお、滞在していた場所にこの知らせを聞いてからも二日間もとどまられたと言うのです(6節)。姉妹の考えは甘かったのでしょうか。「イエスはラザロを愛してくださっている」と考えた姉妹の思いは間違いだったのでしょう。そうではありません。聖書は次のように語っています。
「イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた」(5節)。
日本語では単にマルタとマリアが思っていた通りイエスは彼女たちを愛しておられたと読んでしまうかも知れません。しかし、聖書が記されているギリシャ語では3節と5節の「愛」と訳された言葉は全く別の単語が用いられているのです。マルタとマリアが語った「愛」は「フィレオ―」と言う言葉で人間的な信愛の情を表すものです。しかしもう一方のイエスの愛は「アガペー」と言う言葉、神の無条件の愛を表す特別な言葉が用いられているのです。
人が抱く愛は不完全なものです。そしてその愛は自分が考える条件に合った者だけに向けられます。もしその条件が変わってしまえばその愛も無くなってしまいます。しかし、神の愛、イエスの愛はそうではありません。私たちに向けられた愛は私たちがどのようになっても変わることがないのです。そしてこの神の愛は決してなくなったりはしないのです。だから私たちは心配する必要はありません。「神はこんな自分を愛してはくださらない…」などと考えて心配になる必要はないのです。
人は自分にとって都合の悪い病気や様々な災いが起こると「自分は神に愛されていないのではないか…」と疑ったりします。しかし、事実はそうではありません。イエスがラザロを愛してくださっていたように、私たちも今、イエスの愛、「アガペー」の対象とされているのです。
3.命であるイエス
①神の栄光のための人生
それではイエスに愛されていたラザロはどうして病に犯され、死の苦しみを味わうことになったのでしょうか。このことについてイエスは次のような言葉で説明されています。
「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(4節)。
この言葉は先週の生まれた時から目が見えなかった人にイエスが語られた言葉「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9章3節)と同じような意味を持つ言葉だと言えます。イエスの御業が生まれた時から目が見えなかった人を通して実現したように、イエスの御業は病気となり、やがては死んでしまうことになるラザロを通してはっきりと表されると言うことをこの言葉は教えているのです。
神の与えてくださった私たちの人生の中で、私たちには神の栄光を表すための重要な主役の座が与えられているのです。私たちの人生はそれぞれ異なっています。その人生に起こる出来事も違っています。しかし、神はその私たち一人一人の人生を通して神の栄光を表すことができるようにしてくださる方なのです。ですから無意味な人生など決して存在しないのです。だから私たちは私たちの人生を通して神の栄光を表してくださるイエスを信頼して、自分の人生を大切に生きることができるのです。
②死んでも生きる
さてこの物語の中で最もよく知られ、また人々に愛されているイエスの言葉はやはりこの言葉であるかも知れません。
「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(25節)。
この言葉はイエスが兄弟ラザロの死んだ後にやって来られたことに対して「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節)と嘆くマルタに対して語られたものです。そう考えると「わたしを信じる者は、死んでも生きる」と言う言葉は死んだラザロがこれから生き返る出来事を言っていると考えることもできます。ただイエスはこの言葉の後に「生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか」と語られています(26節)。確かに死んだラザロはイエスによって生き返ることができるようにされました。しかし、そのラザロも、またその姉妹のマルタもマリアもその後、すべての人間と同じように死んで行ったはずです。今まで、イエスを信じて不老不死になったと言う人の存在を私たちは聞いたことがありません。それではいったいこのイエスの言葉は何を私たちに教えているのでしょうか。
この言葉は私たち人間の命の本質を教える言葉です。私たちは私たちの持つ命について様々な解釈や説明を聖書以外のところで聞いていると思います。しかし、聖書はそれらの説明とは異なり、私たちの命は神が与えてくださったものであることをはっきりと教えています(創世記2章6節)。ですから、この人間の命は神に由来するものであり、その神から離れてしまうならば私たちは当然、その命を失い、死ぬほかないのです。イエスはご自分のことを「命である」と語っています。イエスは私たちの命そのものであると語ってくださっているのです。かつて、私たちの先祖が罪を犯して失ってしまった命が、今やイエスと言う存在を通して私たちのところに戻って来たと言うのです。
ですから私たちの命はこのイエスと言う存在としっかりと結びつけられていると考えることができます。つまり、イエスの命と私たちの命は一体であると言えるのです。そしてそのイエスが復活されたということは、私たちが復活したことを表しています。また復活されたイエスが今も生きておられ、決して死ぬことがないように、私たちの命も死ぬことはない、永遠の命が与えられていると言うことができるのです。イエスはこの命を私たちに与えるために来られた救い主であると言えます。そしてこのラザロの生き返りの物語はイエスが命そのものであることを表す確かな証拠だとヨハネは教えているのです。
4.表された栄光
①涙を流すイエス
先日、ある方が「きっと、イエス様も私たちと同じようにいろいろと迷われることもあったのではないか…」と教会で話したところ、「イエス様は神様ですから、迷われることは決してありません」とびっしっと別のある人に言われてしまったと語られていました。ヘブライ人への手紙ではイエスについて「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(4章15節)と言っています。実際にイエスは十字架にかけられる直前のゲツセマネの祈りの中で「この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ14章36節)と語ったと記されていますから、やはり私たちと同じような弱さを持っておられたことが分かるのです。
ラザロの墓に向かおうとされたイエスは、そこでマリアや彼女と一緒にいたユダヤ人たちが泣いている姿を見て「涙を流された」(35節)と語られています。イエスが涙を流すというのは他ではあまり見つからないとても珍しい表現です。イエスも私たちと同じように涙を流されたのです。しかし、イエスの流した涙は私たち人間が流す無力な涙とは違っていたことがすぐにわかる出来事がすぐに起こります。イエスがラザロの墓に向かって「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれると、死んだはずのラザロが生き返って墓の中から現れたからです(43~44節)。
この出来事はイエスが私たちを支配する死の現実と戦い、それに勝利することがおできになる救い主であることを私たちに教える確かな証拠となっています。
②神の御業をあらわしたラザロ
この礼拝に引き続いて今日もウエストミンスター小教理問答書を学びます。皆さんも知っているようにこの問答の第一問では「人間の主要な目的は何ですか」と言う言葉に対して、「人間の主要な目的は、神の栄光をたたえ、永遠に神を喜ぶことです」と言う答えが記されています。以前の訳では「神の栄光をたたえる」と言うところが「神の栄光をあらわす」となっていました。私たちは「神の栄光をあらわす」と言う言葉を聞いて、「神に喜ばれるような立派な信仰生活を送らなければ」と意気込んでみたり、また現実の信仰生活がそのようにできていないと思うと「神の栄光をあらわしていない」とがっかりしてしまうことがあります。
この点において私たちは今日の物語の中で神の御業があらわれるために病気となり死んでいったラザロの姿を覚えるべきかもしれません。この後、ユダヤの宗教指導者たちはイエスと共にこのラザロも殺してしまおうと考えました。彼の存在がそのままイエスのすばらしさを表すものとなっていたからです。
ラザロはがんばったからそのような存在になれたのではありません。イエスが彼の人生をそのように取り扱ってくださったからそうなったのです。イエスは私たち一人一人の人生もこのラザロと同じように取り扱ってくださいます。かつては罪の支配の下に死の運命に縛られていた私たちに、イエスは信仰を与えてくださいました。そして私たちをイエスと共に永遠の命に生きるものとしてくださったのです。ですから私たちは私たちをアガペーの愛で愛し、私たちの人生を神の栄光があらわれるために用いてくださる救い主イエスを信頼して、それぞれに与えられた信仰生活を歩んで行きたいと思います。
…………… 祈り ……………
恵み深い天の父なる神さま。
御言葉を通して、主イエスが復活であり命であることを示してくださり、感謝いたします。私たちの弱さと悲しみの中にあっても、主が共にいてくださることを信じさせてください。死に勝利された主に信頼し、希望をもって歩む者とならせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
聖書研究のための設問
1.イエスはなぜすぐにラザロのところへ行かなかったのでしょうか。
2.マルタの信仰告白(27節)にはどのような意味がありますか。
3.「わたしは復活であり命である」という言葉は、私たちの人生観にどのような影響を与えるでしょうか。
4. イエスが涙を流されたことから、どのような救い主の姿が見えますか。
5.ラザロの復活は、イエスご自身の復活とどのように関係しているでしょうか。