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2025.9.7「イエスの弟子となるために」

ルカによる福音書14章25~33節(新P.137)

25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。

26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。

27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。

28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。

29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。

31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。

32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。

33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」


1.厳しいイエスの言葉

①弟子の条件?

 今日はイエスが語られた「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と言う言葉を中心にして皆さんと学びたいと思います(26~27節)。私たちの持っている新共同訳には「弟子の条件」という見出しが付けられている箇所です。新共同訳について少し解説をしますと、この「弟子の条件」という見出しは新共同訳を作った人たちが後から付けたものです。ですからギリシャ語の聖書の原文にはこのような見出しは書かれていません。そのため、教会の礼拝で聖書を朗読する場合には通常この見出しの部分は省いて読まれることになります。

 いずれにしてももしこのイエスの言葉が弟子になるための条件を語っているとしたら、私たちはその条件を満たすことができるのかと心配になるかも知れません。むしろ、イエス・キリストの救いは無条件に提供されていて、誰でもその資格を問うことなく救いにあずかることできると私たちは教えられて来たはずです。いったいそれでは、ここでイエスの語っている条件にはどのような意味を教えているのでしょうか。


②誰に語られたのか?

 まず、この厳しいイエスの御言葉を理解するためには、この言葉が誰に向かって語られているのかと言うところを理解することが必要です。

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)。

 福音書はこのイエスの言葉がイエスの後を追いかけて来ていた「群衆」に向かって語られていたと語っています。おそらくこの「群衆」とは、イエスのうわさを聞きつけて集まって来た人たちだと考えることができます。これまでイエスは人々の前で驚くべき奇跡を数々起こされていました。その中には病気の人を癒したり、空腹を覚える人々にパンと魚を提供するというものもありました。群衆はこのようなイエスの奇跡を体験した人から伝えられるうわさを聞いて、「自分もそのイエスの行われる奇跡にあずかりたい」とやって来た人々が大半であったようです。また、このような評判によってイエスは当時の人々から「神が約束された救い主かも知れない」という期待を抱かれるようになっていました。当時の人々は自分たちを苦しめるローマ帝国の圧政から解放してくれる「救い主」を待ち望んでいて、その救い主こそイエスかも知れないと考えていたのです。ですから群衆はそれを確かめるためにもイエスの後に従って来ていたのかも知れません。

 いずれにしても、この群衆の特徴はイエスに対して自分たちが勝手に抱く期待を当てはめようとしたというところあると言えます。ですから、彼らはイエスがやがてユダヤ人たちによって逮捕され、十字架にかけられると言うことになると、イエスを「自分たちの期待していた救い主ではない」と考え、イエスの元から離れて行ってしまったのです。また、さらにはユダヤ人の宗教指導者たちがイエスを十字架にかける際には、これらの群衆も賛成していたことが聖書には記されています。

 確かにこのときイエスに従っていた人々の中には、イエスから弟子になるようにと選ばれた人たちも含まれていました。しかし、その弟子たちでさえも、やがてイエスの十字架を前にして逃げ出すという醜態はさらしてしまうことになります。そのような意味では彼らもイエスの語る「弟子の条件」を満たすことができなかった人たちだと言えるのです。

 最後にこの言葉が語られている相手として考えられているのはこの福音書を手にとって読んだ人たちです。この福音書を最初に読んだ人々はローマ帝国の厳しいキリスト教弾圧の元で信仰生活を送っていた人たちだと考えられています。当時の教会は新たに洗礼を受けて教会の群れに加わろうと決意する者たちに対して、イースターの前の40日間という期間をかけて、信者となる訓練を徹底的に行ったと言われています。イエス・キリストを信じて生きることが命がけとなる時代だったからです。ですから福音書はそのような時代に生きる信仰者に「自分の十字架を負ってイエスに従う」者にはそれなりの覚悟が必要なことを教えていると考えることもできます。


2.憎み、十字架を背負う

 ところで、今日のイエスの言葉でまず解釈が難しいのは「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)と言う教えです。かつて、巧みなマインドコントロールで多くの信者を集め、その信者たちを団体の施設に閉じ込めて、彼らが家族と絶縁状態になるようにさせたことがありました。そしてこの教団の教祖が信者たちに様々な犯罪行為をさせて大変な事件を起こさせることとなりました。このイエスの言葉は私たちにも家族と絶縁することを勧め、自分の意志を捨てて指導者の言いなりになることを教えているのでしょうか。

 一つ、考えられるのはヘブライ人の持っていた独特の表現方法です。実はヘブライ語では比較を表す言葉がありません。ですからその場合はむしろその反対の言葉を示すと言う方法が用いられました。つまりここで「憎む」と言われているのは、むしろイエスよりも家族の方を、あるいは自分自身を愛するということをしてはならないと教えていると考えることができるのです。イエスよりも他のものを愛したり、大切にすることはイエスの弟子の生き方ではないと言っているのです。

 聖書が語る福音は私たちを罪と死から救うことができる方はイエス・キリストお一人だけだと教えています。だから、聖書は私たちにこのイエスだけを頼って生きなさいと教えているのです。それなのにそのイエスに代わって自分の家族に頼ろうとすること、また、自分自身の力に頼ろうとすること、このような生き方はイエスの弟子の生き方ではないし、それでは私たちは決して救われることができないということをこのイエスの言葉は表しているとも言えるのです。

 またそのような意味で、私たちを唯一の救いに導くことができるイエス・キリストに従うことをここでは「自分の十字架を背負ってついて来る」と言う言葉で表現していると考えることができます。「イエスに従って生きれば自分の人生に何でも思い通りのことが実現する」と聖書は私たちに約束しているのではありません。むしろイエスを信じることで、私たちの人生に不都合な出来事が起こる可能性もあります。それでも私たちがイエスを信じて生きること、それが「自分の十字架を負う」と言う意味だと言うのです。私たちはイエスの弟子として、自分に与えられた人生を生き切ることがここで求められているとも考えることができます。


3.まず腰を据えて考える

 さてイエスは次に、塔を建てようとする人と、戦に行こうとする王様のたとえをここで語っています。日本でもバブルの崩壊後に建設途中のビルディングがそのまま放置されると言う出来事が起こりました。また、今から80年前に起こった太平洋戦争もある意味では敵の力を十分に理解できない軍部が無謀な戦いを続けた悲劇とも考えることができます。イエスはこのような失敗が起こらないように「腰をすえて計算し」、また「腰をすえて考え」なさいとここで勧めています。

 このときイエスの後に従って来ていた群衆たちは十分に熟慮した結果、そのような行動に出たとは考えらえません。むしろ他の人たちに影響されて、「これからどうなるのか」も分からないままにここまで付いて来たと言う人が多かったはずです。イエスはこのような人々が良く考えた上で、これから自分に従って来るようにと促していると考えることができます。

 しかし、よく考えた末に「やっぱり自分には無理…」と言う結論になってしまったらどうすればよいのでしょうか。この点に関しては敵の数のほうが味方の数よりも多いことを知った王様のお話が参考になるはずです。この王は敵に「使節を送って、和を求め」ようとすると書かれています。無力な私たちがイエスの弟子となるためには何が必要なのでしょうか。一刻も早く神と仲直りし、その神に助けを求めることが大切だと言えるのです。

 先ほど、ガリラヤからイエスに従って来た弟子たちも結局はイエスの十字架の前から逃げ去ってしまったことをお話しました。しかし、その弟子たちは逃げ去ってどこかに行って、行方不明になってしまった訳ではありません。この後に彼らは復活のイエスに出会い、再びイエスの弟子として歩み始めています。なぜなら、彼らは無力な自分たちを復活されたイエスが助けてくださると言うことを知ったからです。そしてそのイエスが天から聖霊を送り、弟子たちを導いたからこそ、彼らはイエスの弟子としての使命を自分の人生で全うすることができたのです。  また「腰を据える」と言う言葉は、その計画を実現させるために持てる力を集中すると言うことをも意味しているとも考えることができます。私たちが何もできなくなってしまうのは、一度に様々なことに手を付けるので自分の限りある力が方々に分散されてしまうからです。年齢を重ねると若い時には簡単にできていたものができなくなってしまっていることに気づきます。それでもこれまで通りの生き方をしようとすれば大変です。先に語られていた「憎む」と言う言葉は「捨てる」と言う意味も持っています。イエスに従うためには役に立たない余計なものを捨てて、持てる力を無駄遣いすることなく、集中してことにあたることがここでも勧められていると言えるのです。


4.自分の十字架を負って従う

 私たちはここでもう少し「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎み」「自分の十字架を背負う」と言うイエスの言葉について考えて見たいと思います。なぜなら、ある説教者はこの言葉について、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分」に対して勝手に自分が抱いている期待を捨てることだと言っているからです。私たちは家族の問題を抱えて悩み苦しむことがあります。その葛藤の原因は相手が自分の期待通りの人物、またそのような生き方をしていないことから生まれると言えます。親子関係で傷を負って「自分が不幸になったのはあの親のせいだ」と言い続けている人がいます。しかし、どんなに親を恨み続けても、その親が自分の期待通りに変わってくれることはまずありません。また、もっと深刻なのはその両親がもうこの世にはいないのに、その親を責め続けることです。その結果はどうなるでしょうか。私たちの限られた人生の時間が無意味なことで浪費されてしまうことになります。

 また、イエスの言葉は私たちの家族だけではなく、自分自身のことにも及んでいます。これも私たちが勝手に描く自分自身に対する期待だとしたらどうでしょうか。私たちは「こんなはずではなかったのに…」と自分の人生を悔い続けることがあります。また、そんな自分を自己嫌悪しながら生きる場合もあるでしょう。しかし、これもまたイエスの弟子としてはふさわしい生き方ではないと言えるのです。

 イエスはこのような問題を抱える私たちに、「自分が勝手に抱いている期待を捨てるよう」にと勧めていると考えることができます。そしてむしろ、イエスの弟子としてありのままの家族や、またありのままの自分自身と向き合って生きることを勧めていると考えることができます。もちろん、私たちがそのように現実と向き合って生きることは決して簡単なことではありません。だから、イエスは私たちに「自分の十字架を負って」従って来なさいと教えているのです。

 イエスの弟子となって生きることとは、修道院のようなところに入って、ある意味、私たちが現実から逃避するような生き方を教えているのではありません。むしろ、私たちの生きている毎日の現実の中で弟子として生きることを教えているのです。そのためには私たちは捨てなければならないものがあります。また、「腰を据えて」集中することも大切になって来ると言えるのです。

 今から二千年前、イエスの弟子たちはイエスの十字架を体験し、そこから逃げ出ししまったという厳しい現実を経験しました。彼らのすべての希望が打ち砕かれ、自分自身に絶望し、「これからどうなるのか」と言う恐れに捕らわれてエルサレムの一室に閉じ籠っていました。しかし、そのとき死から甦ってくださったイエスが彼らの前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と語りかけてくださったのです(ルカ24章30節、ヨハネ20章19節)。このときから彼らのイエスの弟子としての生涯が再出発することとなりました。もちろん彼らのこれ以後の歩みは決して簡単なものではありませんでした。しかし彼らは自分に与えられた現実を受け入れて「自分の十字架を負って」イエスの弟子としての生涯を歩み続けようとしたのです。どうしてでしょうか。彼らは復活されたイエスが彼らを助けてくださることを知っていたからです。

 今日の箇所のイエスの言葉は私たちにとってとても厳しい言葉に聞こえるはずです。しかし、その言葉の背後には私たちと共に生き、私たちを導こうとされるイエスの素晴らしい存在があることを私たちはもう一度覚えて、イエスの弟子として生きる決心をすべきだと言えるのです。

あなたも聖書を読んで考えてみましょう

1.イエスはご自分の後を追って来た群衆に対してまずどのような言葉を語られましたか(26~27節)。

2.イエスが続けて語られたたとえ話はどのようなことを教えていますか(28~32節)。

3.この二つの登場人物の行動の中で共通していることは何ですか。

4.イエスの「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)と言う言葉は、私たちがイエスの弟子として生きるときにむしろ邪魔になるものを捨てるように教えていると考えることができます。あなたはイエスの弟子として生きるために何を捨てるべきだと思いますか。

2025.9.7「イエスの弟子となるために」