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2025.9.14「救いの確実さを示す洗礼」

ヨハネの手紙一1章7節、(新P.441)

しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。


テトスへの手紙3章5節(新P.398)

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問72 それでは、外的な水の洗いは、罪の洗い清めそのものなのですか。

答 いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです。

問73 それではなぜ、聖霊は洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでおられるのですか。

答 神は何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうど体の汚れが水によって除き去られるように、わたしたちの罪がキリストの血と霊とによって除き去られるということをこの方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが現実の水で洗われるように、わたしたちの罪から霊的に洗われることもまた現実であるということを、神はこの神聖な保証としるしとを通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです。


1.恵みの手段である礼典

 今日はハイデルベルク信仰問答から「救いの確実さを示す洗礼」と言うテーマで皆さんと共に学んでみたいと思います。洗礼は誰もがキリスト教会のメンバーになるときに一度だけ受けるものです。これは難しい言葉で言えば「入信儀礼」や「イニシエーション」と呼ばれるものです。この洗礼の形式はカトリック教会や私たちの属する改革派教会など多くの教会では、頭の上に数滴の水を注ぐ「滴礼」と言う方法が採用されています。また、特にバプテスト派と呼ばれるグループは身体全体を水に沈める「浸礼」と言う形式を採用しています。

 聖書の中では救い主イエスもバプテスマのヨハネと言う人物の元で「洗礼」を受けています。洗礼を受けられた場所はヨルダン川ですから、おそらくその川の水の中に体を沈めるような方法がこのときには行われたと思われます。しかしこの後になって、キリスト教が各地に広まる中で、そのような川が簡単にはないところ、あるいは水さえ手に入らないと言う状況が生まれました。特にカトリック教会ではこの洗礼を「人が救いを受けるために必ず受けなければならないもの」と教えましたから。誰もがどこでも、どのような事情があっても簡単に受けられる方法が必要となります。そのために生み出され、採用されていったのが「滴礼」と言う洗礼の方法であったと推測することができます。

 この洗礼を受けた者だけが、その後に教会で行われる聖餐式に参加する資格が与えられるのです。この「洗礼」そして「聖餐式」と言う儀式を教会では「礼典」と呼び、さらにこの「礼典」を「恵みの手段」と言い表すことがあります。「恵みの手段」とは目に見えない神の恵みを目に見える形で表すために行なわれるものと考えたらよいと思います。

 私たちは人からプレゼントをもらうことがよくあるはずです。ほとんどのプレゼントは目に見え、また自分の手で触れるものですから、はっきりとそのプレゼントを自分がもらったと言うことがわかります。しかし、神の恵みは目に見えない「霊的」なものなので、本当に自分がその恵みを受けているのか分からないと言う問題が起こる可能性があります。

 救い主イエスは私たちを罪と死の呪いから解放してくださるために、十字架にかかりその命を捨ててくださいました。私たちの罪のすべてが十字架で流されたイエスの血潮によって清くされたのです。この救い主イエスによって、私たちの罪が清められる、あるいは赦されると言う恵みを神から受けたのです。その恵みを「確かに自分が受け取ることができた」、「自分がイエスによって救われた」ということを私たちが確かめるためにはどうしたらよいのでしょうか。

 「そんなことを考えること自身が不信仰だ!何も疑わずにただ信じればよい」。そう考える人もいるかも知れません。しかし、救い主イエスは私たちが自分の罪が赦されたこと、神からの恵みよって自分が救われていることを確かめることのできる目に見える手段を私たちに与えてくださったのです。それがここで信仰問答が取り上げようとしている「洗礼」であり、「聖餐式」という礼典です。

 私たちの救い主イエスは私たち以上に私たちに何が必要なのかをご存知のお方です。そのお方が私たちのために定めてくださったのがこの「洗礼」と「聖餐式」と言う礼典です。だから私たちがこの礼典を喜んで受けるならば、私たちの信仰が強められ、また救いの確信をいただくこともできると言ってよいのです。


2.キリストの血と聖霊の働きによって

①儀式中心の礼拝

 今から500年以上も前にヨーロッパ大陸で起こった宗教改革運動によって生まれたのが「プロテスタント教会」です。そして私たちの属する改革派教会は、ルター派と並ぶ代表的なプロテスタント教会の一つです。この宗教改革運動は長い歴史の中で聖書の教えからそれて行ってしまった当時のカトリック教会の教えを批判し、聖書の教えに戻るための運動であったと言われています。

 その宗教改革の中で非常に問題視とされたのはカトリック教会の「洗礼」や「聖餐式」についての教えです。先ほどから語るように、洗礼のような礼典は目に見えない神の恵みを目に見える形で表すものだとカトリック教会も教えていました。しかし、この教えが行き過ぎてしまうと教会にとって大切なのは信仰ではなくて、教会が行う「洗礼」や「聖餐式」にあずかることだという方向に向いて行ってしまいます。つまり、人が救われるためには教会が授ける「洗礼」を受けること必修であり、この洗礼を受ければ、たとえその人が聖書の教えを全く理解していなくても救われると言うことになってしまいます。

 このような考えが進むと教会の礼拝はどうなるでしょうか。礼拝では聖書を読んだり、その教えを聞いたりすることよりも、洗礼や聖餐式という儀式を行う場所に変わって行きます。実際、宗教改革時代のカトリック教会の礼拝はそのようなものに変質していたと言えるのです。当時のカトリック教会はラテン語と言って古代のローマで使われていた言葉を用いて一切の礼拝が行われていました。礼拝に参加する人はそこで語られている言葉が理解できず、いったい何が教えられているかわからないままでも、教会が行う儀式にあずかればよいと言うことになってしまったのです。これはある意味で、私たちが仏教の葬儀に出席している状況と似ているかも知れません。そこで唱えられているお経は私たちが理解できる言葉ではないからです。


②聖霊が働かれる場所である礼拝

 ハイデルベルク信仰問答の問72は「それでは、外的な水の洗いは、罪の洗い清めそのものなのですか」と言っています。これは教会の行う洗礼を受ければ、聖書の教える福音を知らなくても、その人は救われる…。洗礼の水を受けるだけですべてが解決するのかということを指摘しているのです。これに対して信仰問答の答えは「いいえ。ただイエス・キリストの血と聖霊のみが、わたしたちをすべての罪から清めてくださるのです」と教えているのです。つまり、私たちの罪は洗礼と言う儀式ではなく、キリストの血によって、そしてその恵みを聖霊が私たちに信仰を通して与えてくださることで赦されるのだと教えているのです。ですから信仰のない者が洗礼を受けてもそこには何の効力もないと言えるのです。結論から言えば、私たちが目に見えない神の恵みにあずかれるのは洗礼のような儀式でなく、聖霊の働きによること、聖霊が私たちにイエスを信じる信仰を与えてくださることによって可能となると言ってよいのです。

 このような意味で、宗教改革者は教会の礼拝は参加者がよくわからない儀式ではなく、聖霊が働かれる場所でなければならないと教えたのです。そしてこの聖霊は聖書のみ言葉を通して私たちに豊かに働いてくださるのです。だから私たちの礼拝では自分たちが理解できる言葉で聖書が朗読され、その解き明かしである説教が語られているのです。


3.神による神聖な保証

 このように宗教改革者たちはそれまでの儀式中心のカトリック教会の礼拝から聖霊が豊かに働かれ、キリストの福音の語られる場所と変えるために働きました。それでは、洗礼はこの宗教改革者たちにとってどのような意味を持つものと考えられたのでしょうか。まず目に見えない神の恵みを私たちに与えるのは聖霊の役割ですから、この聖霊の働きを受けて信仰が与えられた者なら、必ずしも洗礼を受けていなくても救いにあずかる者とされるということとなります。つまり、洗礼はキリストによる救いにあずかるための必修条件では必ずしもないことになります。それでは洗礼は私たちに何の益も与えないのでしょうか。

 日本には「無教会」と言う名前で呼ばれる独特のキリスト教のグループが存在しています。皆さんも、もしかしたら内村鑑三と言う名前を聞いたことがあるかも知れません。以前の五千円札の肖像に採用されていた新渡戸稲造と同時代の人物で二人は親しい友人同士であったようです。この内村鑑三によって始められたのが「無教会」主義というキリスト教の一派です。もちろん、彼らも日曜日に集まって聖書の教えを聞く集会を行っているので、「無教会」とは言えないかも知れません。しかし、この無教会主義の大きな特徴は彼らの集まりの中で洗礼や聖餐式と言う礼典を行わないところにあります。つまり、信仰があれば洗礼を受ける必要も、聖餐式にあずかる必要もないと彼らは教えるのです。

 宗教改革者たちはこの内村鑑三と同じように聖霊の働きの結果である「信仰」を強調しました。しかし一方で洗礼や聖餐式という礼典を行うことも大切に教えたのです。その最大の理由は、この洗礼や聖餐式は救い主イエスが私たちのために定め、それに私たちが進んであずかるようにと教えてくださったものだからです。そして宗教改革者たちは洗礼や聖餐式にも私たちの信仰を助ける、大切な働きがあることを積極的に教えたのです。そのことについて信仰問答問73は解説しています。つまり、洗礼の大切な意味は第一にキリストの恵みが聖霊によって確かに私たちに与えられていることを「教える」ためにあると言えるのです。

 私たちは難しい講演を耳で聞いているだけではなかなか理解できないと言うことがあります。そんなとき、講師がパワーポイントなどを使って自分が語っていることを図や写真で示してくれるとたいへんに助かります。私たちは洗礼を受けることで、目に見えないキリストの血の恵みが聖霊によって今自分に注がれていることを視覚的に知ることができ、あるいは肌の感覚で感じることができるのです。これはまさに洗礼は聖書が教える福音の内容を目に見える形で私たちに教える視聴覚教材のようなものだと言うこともできます。確かに私たちは洗礼を受けることで、キリストの血による恵みが聖霊によって自分に与えられたこと、そして私たちの罪のすべてが赦されたことを教えていただけるのです。


4.弱さを持つ私たちへの保証としるし

 さて信仰問答はこの洗礼の働きについて「教える」という意味以上にもっと大切な役割があることを次に説明しています。それは「神聖な保証としるし」と言う役割です。そして私たちは洗礼の「神聖な保証としるし」によって、私たちが確かにキリストに血によって清められ、救われたという保証を受けることができると言うのです。昔の説教者は「神聖な保証としるし」と言う言葉を解説するために旧約聖書の士師記に登場するギデオンと言う人物の物語を引用して教えています(士師記5章)。

 ギデオンの時代、イスラエルは隣国ミディアンの軍隊に苦しめられていました。ギデオンは敵を恐れて「酒ぶねの中で小麦を打つ」ような弱虫な人間でした。しかし、神はそのギデオンをイスラエルの指導者、つまり「士師」として任命しようとされたのです。ところが、ギデオンはこの神の言葉になかなか従うことができません。結局、ギデオンは神の言葉が本当に正しいかどうかを神が行われる「しるし」、不思議な業を通して確かめさせてほしいと願ったのです。つまり神の言葉を確かめることのできる目に見えるしるしがほしいと彼は言ったのです。この言葉に神は怒ることなく従い、ギデオンが願う目に見えるしるしを示してくださったのです。

 神はこのギデオンに示したような目に見えるしるしをキリストの救いにあずかった私たちにも与えてくださったとその説教者は教えています。私たちがキリストを信じて教会で受ける洗礼は、私たちの罪がキリストの血によって清められたことをあらわすしるしです。また、洗礼を受ける者はキリストによって古い自分が死に、新しくされことを保証されたと言えるのです。

 この洗礼を救い主イエスが定めてくださったということは、このしるしが必要でない者はこの世に独りも存在しないことを表しています。だから私たちの教会ではキリストを信じる決心をした者に必ず洗礼を授けています。なぜならこの洗礼を通して、私たちが「神聖な保証としるし」を神から受けることで、私たちの信仰が強められ、確かなものとされることができるからです。

あなたも聖書を読んで考えてみましょう

1.洗礼で使う「水」そのものに、罪をきれいにする力はあるでしょうか。

2.それではなぜ神さまはわざわざ「水」を使って洗礼をするようにとされたのでしょうか。

3.水で体のよごれは落ちますが、私たちの罪を清めてくださるのはだれでしょうか。

4.洗礼を受けた人は、どんな約束を神からいただくことができますか。

5.あなたがすでに洗礼を受けたと言う事実(しるし)から、あなたは信仰生活でどんなことを思い出すべきでしょうか。

2025.9.14「救いの確実さを示す洗礼」