2025.8.31「低くされる者は高められる」 YouTube
ルカによる福音書14章1,7~14節(新P.136)
1 安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。
7 イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された。
8 「婚宴に招待されたら、上席に着いてはならない。あなたよりも身分の高い人が招かれており、
9 あなたやその人を招いた人が来て、『この方に席を譲ってください』と言うかもしれない。そのとき、あなたは恥をかいて末席に着くことになる。
10 招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。そのときは、同席の人みんなの前で面目を施すことになる。
11 だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」
12 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。
13 宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。
14 そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
1.イエスは何を教えたのか
①食事の席に招かれたイエス
神学生のときに大阪にあった在日韓国人教会に派遣されて、しばらくそこで奉仕したことあります。この教会では牧師が特定の時期になるとすべての教会員の家を訪問するという習慣がありました。教会に通う教会員は大阪市内のいろいろなところに住んでいるので、一日にせいぜい三件か四件訪問できればよいというペースでこの訪問は何日間かに渡って続けられます。私も韓国人牧師のお供でこの訪問に加わったのですが、一番大変だったのは訪問する家ごとに食事の準備がされていることでした。昔のことわざに「ちゃぶ台が壊れるくらいのご馳走」と言うのがありますが、まさに訪問する教会員の家のテーブルには数々の料理がいっぱいに置かれているのです。「箸をつけないで帰るのは失礼だ」と牧師から教わって、わたしもその食事にあずかりましたが、韓国料理にまだ慣れていなかった私はその「辛さ」にびっくりした思い出があります。このような食事に一日何回もあずかることになるのですから、「牧師と言う職業も大変だな」とその時には思いました。
今日の聖書の物語はある家で開かれた食事会が舞台となっています。そのことについてルカによる福音書14章の1節にこのような説明が記されています。
「安息日のことだった。イエスは食事のためにファリサイ派のある議員の家にお入りになったが、人々はイエスの様子をうかがっていた。」
この日はユダヤ人にとって神を礼拝する以外には一切の労働が禁じられている「安息日」でした。そして食事会の場所は「ファリサイ派の議員の家」と書かれています。当時のイスラエルはローマ帝国の植民地となってはいましたが、伝統的には宗教家が政治を行うような宗教国家で、そのトップに宗教議会と言う組織がありました。この家の主人はその議会の議員の一人であったようです。当時の宗教議会には大きく分けてファリサイ派とサドカイ派という二つの派閥が存在していました。その内のファリサイ派は聖書が教える掟である「律法」を厳格に守ることを主張したグループです。「人々はイエスの様子をうかがっていた」と書かれているのは、イエスが安息日に律法違反をするのかしないのかを彼らが観察していた様子を表しています。実はこの後、イエスはこの食事の席に訪れた病人の病を癒すということを行われています(2~6節)。そして今日の物語はそのことでひと騒ぎあった後でのお話となります。先ほどは人々がイエスの様子をうかがっていたのですが、今日の部分ではイエスがその食事の席に集う人々の様子を見て、気づいたことがきっかけとなりお話が進んで行きます。
②上席と末席
「イエスは、招待を受けた客が上席を選ぶ様子に気づいて、彼らにたとえを話された」(7節)。
教会堂の上席はいったいどこなのか…?。そう考えると意外と後ろの方の席に皆さんが座るので、そこが上席なのかなと思わされます。しかしむしろ、講壇に近い方が上席であるとすれば、皆さんはいつも末席を選ぼうとしているのかもしれません。正解が分からずいろいろと悩むのですが。当時のユダヤ人の食事会ではこの席の違いははっきりとしていたようです。しかも、訪れる客は皆上席を選び、そこに座ろうとしたと言うのです。この理由もはっきりとしていました。当時の人にとって自分がどこに座るかで、自分が他人からどう評価されているかが分かってしまうと考えたからです。つまり彼らにとっては「上席に座ることは名誉であり、末席に座ることは恥辱」と考えられたのです。
現代では大切なお客を招く食事会などでは最初から座るべき場所が指定されているので、こんな問題は行らないかも知れません。ただ、現代でも「マウント争い」と言う言葉をよく聞くように、私たちの間でも「どちらの人間の価値の方が上か下か…」で争うということが頻繁に起こっているのではないでしょうか。つまり、現代で言えば、「皆が誰が一番価値があり、偉いのかマウント争いをしている様子を見て、イエスは次のようなたとえ話を語られた」と言い換えるとこのお話の内容が私たちにも少し分かって来るかも知れません。
2.どうして上席に座ってはいけないのか?
イエスはこの出来事をある婚礼の席でのお話にたとえています。婚礼の席で、「自分は誰よりも敬われる価値を持った存在だ」と考えている人が上席に座ります。するとその食事を主催した家の者がやって来て「そこはあなたの座るところではありません。もっと末席の方に座ってください」と言われてしまい、その人は大恥をかくことになってしまったと言うのです。だから、むしろこういうときは最初に末席に座って、その家の者から「もっと上席の方にお座りください」と言われるのを待った方がいいとイエスは教えたと言うのです。
つまり、このお話の主人公は「自分は上席に座るべき人間だ」と思い込んでいたのに、実際に周りの人から見れば、「上席に座る価値を持たない人間だ」と見なされていたと言うことになります。そしてむしろ末席の方が彼にとってはふさわしい場所だったということになります。だから自分の勘違いから恥をかかないために最初は末席に座るべきだとイエスは教えているのです。このような意味ではこのお話、食事の席に出席する者たちに「恥をかかなくて済むテーブルマナー」を教えていると言えるかも知れません。しかし、このお話の結論である「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言う言葉を読むと、このたとえは単なるテーブルマナーよりはもっと大切な福音の真理を語っているように思えるのです。なぜなら、ここで奨められている「へりくだる」と言う言葉はそのまま私たちを救うために天からやって来てくださったイエス・キリストの生涯を表す言葉だと言えるからです。使徒パウロが記したフィリピの信徒への手紙の2章にはこのイエス・キリストの生涯が次のような簡潔な言葉で紹介されています。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(6~9節)
これは救い主イエスの生涯に渡る「へりくだり」を示す言葉となっています。キリストは神の御子でありながらその身分を捨て、私たちと同じ人となられました。そして十字架の死に至るまで従順に歩まれた、それによって彼は父なる神によって高く上げられたと言われているのです。実はここにこそ私たちのような罪人が天の高みへと引き上げられると言う神から福音の知らせが語られているのです。なぜなら、私たちは本来、天の高みに住む神と共に生きる価値を持っていない者たちです。しかし、神の御子であるイエスが私たちと同じ人となって私たちのために命をささげてくださったからこそ、私たちも神の子という資格をいただくことができたのです。そして神と共に天の御国の祝宴の席につく資格が私たちにも与えられてのです。
そう考えると私たちにとっての「へりくだり」とは、まさに私たちが自分の人生でこの救い主イエスをお迎えするために必要な準備を語る言葉だと言うことができます。なぜなら、「自分は神からも人からも評価されるべき優れた人間だ」と勘違いしている人は決して、イエスの救いを受け入れることができなからです。むしろ、「自分は神に受け入れていただくような価値を何も持っていない者であり、末席に座る価値もない」と考える人こそが、主イエスによって提供される福音を喜んで受け入れることができるからです。ですから、神の前で「へりくだる」者こそが、私たちのために「へりくだって」くださった主イエスの恵みを豊かに受け取ることができ、その人は神によって高くされ、神の子とされる祝福を受けることができるのです。
3.どうして報われることを期待してはいけないのか?
さて、イエスはこのお話に引き続いてもう一つ食事の席に誰を招待すべきかについてを教えるお話を語っています。
「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」(12節前半)。
食事の席には親しい友人や家族を招待してこそ、その食事会は楽しい集まりになるのではないでしょうか。そんな席に、誰か別の人を呼んだらせっかくの食事会も楽しめなくなってしまうのではないでしょうか。しかし、この食事会は最初から楽しむためと言う目的よりは何か別の目的で開かれていることが次のイエスの言葉で分かります。
「その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」(12節後半)。
この食事会は結局、そこに招待した人たちから自分に何かの報いが返って来ることを期待して行われるものとなっています。その報いは必ずしも何かの品物ではなく、自分が他人から良い評価を受けると言うものも含まれるはずです。そうなると、このお話は食事の席に上席に座っても、恥をかくことがないような準備を自分でしていると言うことにもなります。「あなたはいつも私を食事に招いてくださっています。だから、私の食事会では是非、上席に座ってほしい。あなたは私にとってそのように価値のある人間です…」。そう評価されるのが目的となっていると言ってよいかも知れません。しかしイエスはここでも、「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」と語れれています。なぜなら、この人たちは私たちが期待するような報いを与えることができない人だからです。そしてイエスは結論としてこう語っています。
「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(13節)。
この結論だと報いは人に求めるものではなく、神からいただくことが大切だと教えていると考えることもできます。ただ、こう結論づけてしまうと、やはりその人たちを招くことは最後に自分が神からふさわしい評価を受けるためであり、ここで招かれている人はその評価を受けるための手段に人になってしまいます。これではイエス・キリストが私たちに宣べ伝えて下さった福音の真理と逆で、むしろ神からの報いを求めて律法に熱心に従おうとしたファリサイ派の生き方を支持するような結論になってしまいます。
4.報いを求めない神の愛
私たちはこのイエスの教えを正しく理解するために、このお話もイエス・キリストの生き方にそのまま当てはめて考える必要があるのかも知れません。聖書は別の箇所で、ある家で行われた宴会の席についたイエスのもとに普段、ファリサイ派の人々が付き合うことをしない人々がたくさん招かれているのを知って、そのファリサイ派の人々がイエスに次のような抗議をしたことを報告しています。「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」(ルカ5章30節)。ファリサイ派の人々がイエスに向かってこう抗議したのは、「こんな人たちを招待しても、何の役にも立たない」と考えたからです。しかし、イエスはこの抗議に対して「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(31~32節)と答えられたのです。
この言葉の通り、私たち罪人が神の国の祝宴の席に座ることができるのは、救い主イエスが私たちに対して何の報いも求めずに私たちを招いてくださったからです。これは、救い主イエスを私たちのために遣わしてくださった父なる神も同じです。父なる神は私たちに何の報いも求めることなく、無条件で救い主イエスを与えてくださったからです。
このことを私たちにとってもっと身近な人たちの例で考えて見ましょう。私たちは一人で聖書を読み、一人で教会に行き、一人で信仰を持ったと言えるのでしょうか。たぶん、誰かが私たちの人生に関わってくださり聖書を教え、また私たちを教会に導き、洗礼を受けてクリスチャンになることができるように祈ってくれたからです。それではその人たちは私たちに何かの報いを求めるためにそれをしたと言うのでしょうか。そうではないと思います。私たちが今、信仰生活を送ることができているのは、報いを求めないで私たちのために働き、祈ってくださった信仰の仲間たちがいたからです。そして彼らもまた、私たちに何の報いも求めることなく神の国に招いてくださる救い主イエスが遣わしてくださった人々であるとも言えるのです。
「そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14節)。
ここで言われている「正しい者たちが復活するとき」とは、イエス・キリストの無償の恵みにあずかって正しい者と認められた私たちが復活するときを表しています。私たちに対して何も報いを求めないイエスによって救われた私たちが復活させられるときが必ずやって来るのです。その時、そこには私たちが信仰者となるために報いを求めることなく関わってくれた兄弟姉妹たちも復活させられています。また、私たち自身も労苦し、涙を流しながら福音を伝え、また祈り続けた人も復活させられているのです。この復活のときに報いを求めることのない神によって救われた者たちがお互いに再会し、喜び合うときが必ずやって来ることをイエスはこのお話を通しても私たちに約束してくださっていると言えるのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.「ある安息日」にイエスはどこで何をされました(1節)。
2.この席でイエスはどのような様子に気づかれましたか(7節)。
3.イエスは「上席に着いてはならない」理由を何と教えられましか。またこのような席ではどのような席を選ぶべきだと語られましたか(8~10節)。
4.あなたはイエスの語られた「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」と言う言葉から何を学ぶことができますか(11節)。
5.イエスは「宴会を催すときに」に、誰を呼んではならないと言われましたか。また、このような席にどのような人を招くべきだと語られてましたか。またその理由についてどう教えてくださいましたか(12~13節)。
6.「お返しができない人を招く人」についてなぜイエスは「あなたは幸いです」と言われたのでしょうか(14節)。