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  4. 8月3日「蓄えるべきものは何か」

2025.8.3「蓄えるべきものは何か」 YouTube

ルカによる福音書12章13~21節(新P.131)

13 群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」

14 イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」

15 そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

16 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。

17 金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、

18 やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、

19 こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』

20 しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。

21 自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」


1.自分の死

 最近、私はNHKで大変面白いドラマを見ました。ドラマの主人公は職場で働く独身の女性です。今まで自分の好き放題のことをして生きて来た彼女ですが、その状況を変える大きな出来事がある日、突然に起こります。それは幼いころから自分を可愛がってくれていた叔母が孤独死を遂げたという出来事です。その叔母さんも独身のままで、若い頃にはバリバリ仕事もし、その上でおしゃれで、自分の好きなことをして生活をしていたので主人公は子どもの頃からその叔母さんにあこがれを持っていました。その一人暮らしの叔母が誰にも知られずに悲惨な孤独死を遂げたと言うのです。そこで今は自分も40歳近くになった主人公もその叔母さんの人生を自分に置き換えて考え始めます。「自分も誰にも知られないまま一人で死んで行くのだろうか」。そんな孤独死の不安を感じ始めた主人公が様々な行動を起こし、家族や周りの人々もそれに巻き込まれて行くというコメディー調のとても面白いドラマです。現代社会で深刻な問題の一つとなっている孤独死がユーモラスな形で取り上げられているのです。

 いつ起こるか分からない自分の死と言う問題を考え始める点ではこのドラマの主人公は今日、私たちが学ぶ聖書のたとえ話に登場する主人公とは大きく違っているかも知れません。なぜなら、イエスの語られたこのお話の主人公はこの世に生きる人間であれば必ずやって来るはずの「自分の死」と言う問題をすっかり忘れています。あるいは彼はそのことをまったく真剣に考えようとしなかったのです。

 かつて日本でもカトリック教会の一人の神父が「死の準備教育」の大切さを訴えたことがあます。NHKが彼の講義を番組で取り上げたこともありました。おそらく多くの人は「自分が死ぬことなど考えたくない…」と思われるかも知れません。しかし、私たちが自分の死について考えことは、自分の限りある命の時間を大切に生きるために必要なことだと言えます。そのような意味でイエスは、今日のたとえ話を私たちに教えてくださったとも考えることができます。それではイエスはここで私たちにどのような命の時間の過ごし方を教えておられるのでしょうか。


2.遺産問題を解決してほしい

 今日の物語のきっかけはイエスの元にやって来た一人の人の願いから始まっています。

「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」(13節)。

 この人の家庭にどのような事情があったのかは詳しくは分かりません。彼は今、親が残した遺産の取り扱いで自分の兄弟たちと争っている真っ最中だと言うのです。このような問題は時代が変わっても私たちの周りでもよく話題になります。そのような意味では人間の本質は時代が変わっても決して変わることがないことをよく表す証拠なのかも知れません。実は当時、聖書の掟を研究して、それを人々に教えていた律法学者たちは人々の抱えるこのような生活の問題にも関り、解決策を提案するような役目を果たしていました。ですからこの人が聖書を教えるイエスの元に相談にやって来たのはまんざら間違いではなかったのです。しかしイエスはこの人の願いにすぐ次のように答えています。

「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」(14節)

 イエスは裁判官や調停人となるためにこの世に遣わされた方ではありません。神から遣わされた救い主として、神の独り子であるイエスにしかできないことをこの地上でされるために来られた方なのです。この人の兄弟に「彼にも財産を分けてあげなさい」と言うことはイエスでなくてもできるはずです。しかし、他の誰もが教えることのできない大切な真理を教えるためにイエスが来られたことを、この人はまだ知らなかったのです。ですからイエスがこの人に少し冷たいような対応されたのは、この人の問題を決して軽視した訳ではありません。イエスはここで神から遣わされた救い主として御自身だけができる答えを彼に与えようとされたのです。それではイエスは財産の問題で苦しんでいるこの人に何を教えようとされたのでしょうか。イエスは次のように語っています。

「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」(15節)

 この言葉からイエスはこの人に「人の命」について教えようとされていることが分かります。そして「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」と言う言葉を分かり易く教えるためにイエスは続けて次のようなたとえ話を語ってくださったのです。


3.愚かな金持ち

「それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい…』」(16~18節)。

 この物語はよく「愚かな金持ち」と言う名前で呼ばれています。この金持ちが「愚か」と言われている理由は20節で神から「愚か者」と彼が呼ばれているからです。しかし、彼の生き方はこの世の常識から考えて見ると決して「愚か」ではありません。むしろ彼は「賢い」と言われてよいのかも知れません。現在でも、無駄遣いをせずに老後の資金を蓄えることが「賢い」生き方だと教えられているからです。 それではなぜ聖書はこのお金持ちを「愚か」と呼ぶのでしょうか。興味深いのはこの金持ちが自分の「命」をどう考えていたかと言うことです。実はヘブライ語で「命」はネフェシュと言う単語で表現されています。この単語は元々「口」とか「喉」と言った人間の持つ器官から生まれたものと考えられています。この後、語られる金持ちの独り言のような言葉を聞いて見ると分かるのですが、彼は自分の命をある意味で食物によってだけ成り立つものと考えていることが分かります。

「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)。

 この言葉から分かるように彼にとって自分の人生は「食べたり飲んだり」するためにあると考えられています。しかし、その彼の人生観が間違っていたことが分かる出来事が起こります。それは彼自身の上に突然に訪れた自分の死という出来事です。

「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」(20節)。

 この神の言葉は私たちの命は食べたり飲んだりするためにだけに与えられているのではないことを教えています。結局、彼が自分の命のために「最も大切だ」と思っていたものは、彼の人生には何の役にも立たないものであるということが彼自身の死と言う出来事を通して証明されているからです。


4.神の前に富む

①自分のことで心を一杯にする金持ち

 イエスはこのお話の結論として次のような言葉を私たちに語っています。

「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)。

 それではいったいイエスがここで語った「神の前に豊かになる」と言う生き方とはどういうことなのでしょうか。そのことを理解するためには、もう一度、このたとえ話に登場する金持ちの生き方に注目する必要があると言えます。実は私たちの読んでいる日本語の翻訳聖書では分かりづらいのですが、原文で読むとこの短いお話の中でこの金持ちは「私の作物」、「私の倉」、「私の財産」、「私の魂」と言う具合に「私」と言う言葉を頻繁に繰り返して語っています。この言葉から分かるように、彼の関心のすべては自分自身にだけ向けられているようです。今流行りの言葉で言えば彼の生き方は「自分ファースト」と言ったらよいでしょうか…。このように自分に対する関心だけで満たされている彼の心の中には他のものが入る余裕が全くありません。そのような意味で彼は自分の命は自分の力だけで維持するものであり、すべてのものはそのためだけに使ってよいと考えていることが分かります。しかしその生き方は自分の死と言う現実を通して破綻してしまうのです。

 聖書は「私たちの命は神から与えられたものだ」と私たちに教えています。また、私たちが今日もこのように生きることができるのも、この神の御業によるものだとも教えているのです。ですから、この金持ちの毎日の働きが報われて、たくさんの作物が彼に与えられたのは神がそのようにしてくださったからだと言えるのです。しかし、この金持ちはこの真理を悟ることができませんでした。もし彼がこの真理を知っていたなら、彼はたくさんの作物を無駄にすることはなかったはずです。自分では食べれない作物を使って、いろいろなことが彼の人生はできたはずだからです。なぜなら、神は私たちにただ「食べたり、飲んだり」するためだけに命を与えて下さったわけではないからです。神は私たちの一度きりの人生でやりとげるべき大切な使命を私たちに与えてくださっているのです。


②私たちの心に神をお迎えする

 以前こんなお話をどこかの本で読んだことがあります。

 一人の婦人が末期がんの宣告を受けて病院に入院しました。「どうして自分だけが」と最初、自分の人生に訪れた不幸を呪い、彼女はその気持ちを晴らすために周りの人たちに暴言を吐くような毎日を送っていました。しかし、そんなことをしても彼女の心は決して満たされることがなかったのです。そんな毎日を送っていたときのことです。彼女はある日、病院のガラス窓に映る自分の顔を見て愕然としたと言います。なぜなら、そこには生きているとは名ばかりの死人のような自分の顔の姿が写っていたからです。ところがその時に彼女を驚かせたものは死人のようになった自分の顔だけではありませんでした。彼女がよく見て見るとガラス窓の向こうの道を歩く町の人々の顔も自分の今の顔のように生気のない死人のような顔をしている人たちが多かったからです。

 彼女の毎日はこの日から大きく変わったと言います。なぜなら、次の日から彼女は病院の許可を得て、外に出て車いすの上からその街角を歩く人々に向けて笑顔で「おはようございます」と言う声掛けをし始めたからです。もともと外交的な性格だった彼女が声をかけると町ゆく人も皆、笑顔で「おはようございます」と答えてくれるようになりました。それは街角を歩く人だけにではありません。彼女は自分の周りにいる人に必ず笑顔で「こんにちは」、「いつもありがとう」と挨拶をするようになりました。すると今まで疲れ果てた顔をしていた周りの人たちも笑顔に変わりました。彼女の地上に残された時間はわずかでした。しかし彼女はその時間を使って自分にできることを精一杯しながら人生の最後のときを迎えることができたのです。

 私たちにもこの地上で残されている自分の命の時間がどのくらいなのか分かりません。しかし、大切なことはその人生の時間が長いか短いかと言うところにあるのではありません。私たちがその残された時間をどのように使うのか、それが大切であることをイエスは私たちに教えようとされているのです。私たちの命を今日も支え続けて下さる神様は、私たちがその命の時間を使って自分にできる何かをすることを望んでおられるからです。

 イエスが教えてくださった「神の前に豊かになること」とはどのようなことでしょうか。それは「わたし」の「わたし」のと自分自身に対する関心だけで一杯になっている私たちの心にまず神をお迎えする場所を作ることです。そしてその神を私たちの心に実際にお迎えすることです。そうすれば、私たちの心に入って下さった神が、私たちが大切な命の時間を豊かに生きることができるようにと導き、守ってくださるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.このときイエスの元に集まって来た群衆の一人がイエスに語った相談の内容は何でしたか。その相談に対するイエスの答えはどのようなものでしたか(13~14節)。

2.この人とのやり取りに続いてイエスはそこに集まっていた一同に対してどのような言葉を語られましたか(15節)。

3.イエスの語られたたとえ話に登場する金持ちは自分の畑が豊作になって何を思い巡らしましたか(17節)。そこで彼が考えた解決策はどのようなものでしたか(18節)。

4.この金持ちが自分自身に語った言葉の内容を通して、彼が自分の命について何を考えいたことがわかりますか(19節)。

5.どうしてこの金持ちは神から「愚か者」と呼ばれることになったのでしょうか(20~21節)。

6.それではイエスがこのお話の最後に教えてくださったように、「神の前に豊かになる」者とはどのような人の生き方を語っているのでしょうか(21節)。

2025.8.3「蓄えるべきものは何か」