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2025.8.17「分裂をもたらす平和の主」

ルカによる福音書12章49~53節(新P.133)

49 「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。

50 しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。

51 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。

52 今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

53 父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」


1.「平和の主」がなぜこのような言葉を語ったのか?

 少し早くてその気分になるのは難しいかも知れませんが、皆さんもクリスマスの物語を思い出していただければ幸いです。最初のクリスマスの夜に、救い主誕生の知らせを天使から受けた羊飼いたち、その時、この天使に天の軍勢が加わって神を賛美する歌声が夜空に響き渡りました。

「いと高きところには栄光、神にあれ、/地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2章14節)

 この賛美の言葉の通り、救い主イエスは私たちの住む世界に真の平和をもたらすために来られた方です。また、今度はクリスマスに替わって主イエスの復活の出来事に私たちは心を向けてみましょう。主イエスの復活が復活された日、この出来事を簡単には信じることのできない弟子たちは、イエスを殺した人々が自分たちをも逮捕しに来るのではないかと恐れて、エルサレムの一室に閉じ籠っていました。そのとき、弟子たちの真ん中に復活されたイエス御自身が現れ、弟子たちに次のように語り掛けます。

「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた」。(ルカ24章36節)

 この日、十字架の死を通して罪人である人間を支配し続けて来た罪と死の力に勝利したキリストはご自分が復活した姿を弟子たちの前に現わしてくださいました。そしてこのイエスの言葉が語るように、主イエスは恐れに支配される弟子たちに真の平和を与えるために復活してくださったのです。

 このように主イエスの存在と平和はその誕生から復活に至るまで、切っても切り離すことのできない関係を持っていることが分かります。それを証するように私たちの歌っている讃美歌にも「平和の主」とイエスを賛美する言葉が記されています(讃美歌130番)。それなのに今日の聖書の箇所のイエスの語られた御言葉はまるで、その私たちの信仰を否定するかのような内容が語られています。イエスは次のように語っています。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである」(49節)。

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。

 ここで主イエスはこの地上に「火を投ずるため」に、また「分裂」をもたらすために来られたと言われています。いったいこの言葉は何を私たちに教えようとしているのでしょうか。今日は皆さんと共に、この主イエスの言葉から、主イエスが私たちに与えてくださる真の平和について、またその平和にあずかるためには何が大切なのかについて少し考えて見たいと思います。


2.明確な目標を持って生きたイエス

①イエスが示された模範

 毎朝、NHKでアンパンマンの原作者夫妻を描いたドラマが放送されています。このドラマの中で、アンパンマンの主題歌一節が頻繁にセリフの中に登場します。「何のために生まれて、何をして、生きる。答えられないないなんて、そんなのは嫌だ!」。とても児童の向けのアニメの主題歌とは思えないような、ある意味で哲学的な課題が歌われています。

 私たちが読んでいるルカによる福音書12章は神の国の到来を人々に伝えながら、エルサレムの都に向かう主イエスと弟子たちの姿、そしてその教えが紹介されています。ここでは愚かな金持ちのように結局は自分の命にために役に立たないものために生きるのではなく、私たちから決してなくなることも奪われることもない天の宝を得るために生きることが私たちに勧められています。そしてイエスはそのために私たちがどのように生きたらよいかを教えてくださるのです。

 主イエスは私たちが曖昧なまま人生を送るのではなく、明確な人生の目標を持って生きることを望んでおられます。しかし、その人生は決して簡単に生きることができるものではありません。主イエスの指し示されている目標に向かって私たちが歩む人生には様々な困難が伴うからです。今日の主イエスの言葉はそのような人生の生き方の模範を主イエス自身が示され、またそのために実際に生きた主イエスの姿を私たちに紹介しています。


②火を投ずるために

 旧約聖書に登場する預言者の一人エレミヤはユダの国が巨大な大国バビロンの力に苦しめられている時代に活躍した人物です。当時のユダの王はバビロンの後ろ盾によって自分の地位を受けたにも関わらず、そのバビロンの力に反逆しようと考えました。そこでユダの王は当時、バビロンに並ぶ大国であった隣国エジプトの力を借りようとします。しかし、エレミヤは何をしても結局はユダの国は滅ぼされると言う神のメッセージを人々に語り続けます。なぜなら、バビロンによるユダへの侵略は神に反逆し続けている彼らへの神の裁きであったからです。ですから、エレミヤは神の裁きを甘んじて受ける必要があると語り、大切なことはエジプトの力に頼るのではなく、皆が神の前に悔い改めて神に頼ることだと訴えたのです。

 ところがユダの王は国民の意識を戦争遂行に向かわせようとしているのに、その戦意を挫くような発言をするエレミヤの存在を心よく思いません。エレミヤそのために迫害され、苦しみました。エレミヤは神から与えられた真理を語るために苦しみ続けなければなりませんでした。この預言者エレミヤは来るべき救い主イエス・キリストの姿を予め示すような存在であったとも考えられています。なぜなら、主イエスも神の国の真理を語ることで、イスラエルの民から歓迎されるのではなく、返って反感を抱かれ、彼らからの迫害に苦しみながら最後には十字架につけられることになったからです。

 今日のイエスの言葉の中で問題となるのは「地上に火を投ずるため」と語られているその「火」とは一体何かと言う点です。ここ数日間のテレビでは太平洋戦争の記憶がいろいろと取り上げられています。アメリカが落とした広島や長崎の原爆もそうですが、東京でもB29が投下した焼夷弾によって町は火の海となり、たくさんの人々の命が奪われると言う悲劇が起こりました。主イエスが語る「火を投ずるとは」はそのような爆弾と同じように、人の命を奪うようなもののことを言っているのでしょうか?しかし、そう考えると次に続けて語られるイエスの言葉の意味がよく分からなくなってしまいます。

「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」

 この言葉の意味から考えると主イエスが投ずる火とは人々の命を奪うためのものではなく、むしろ人々に永遠の命を与える神の国の福音であると考えることができます。主イエスはこの福音を宣べ伝えるために大切な地上での人生の時間を使われたからです。しかし、人々を滅ぼすためではなく、むしろその人々を罪と死から救い出す福音を語るイエスに対して当時の人々はどのような態度を示したのでしょうか。次に続く主イエスの言葉はそのことを私たちに教えています。


3.引き起こされる分裂

①受けなければならない洗礼

「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(51節)。

 イエスの語る神の国の福音を当時の人々は喜んで受け入れることができませんでした。むしろ、主イエスの語るメッセージを快く思わない人々によって主イエスは苦しめられたのです。そして最後にはユダヤ人の宗教指導者たちの陰謀によって主イエスは十字架にかけられて殺されてしまいます。なぜなら、彼らはイエスの語る神の国の福音のメッセージが自分たちの立場を危うくすると考えていたからです。

 「わたしには受けねばならない洗礼がある」。この言葉はそのままイエスの十字架の死を表すものと考えることができます。しかし、この言葉はイエスを十字架にかけたのはユダヤ人の宗教指導者たちではなく、この死は神の計画に基づくものであることを同時に示しています。イエスは真理のために死んだ単なる殉教者の一人ではありません。むしろ、御自分の命を十字架でささげることで私たちに救いをもたらし、真の平和を与えるためにやって来てくださった救い主だからです。


②偽りの平和にしがみつく人々

「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節)。

 このような主イエスの生涯を振り返りながら今日の言葉を読むことで分かってくることは、ここでイエスが語っている「平和」は神が与えようとする真の平和ではないと言うことです。むしろここで語られている「平和」とは自分たちの抱えている問題をひた隠しにして、成り立つこの世の偽りの平和でると言うことです。

 主イエスの語られた愚かな金持ち(13~21節)の話では、豊作によって与えられたたくさんの食物を見て「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」と金持ちは安心しています。しかし、それは結局、彼の命のためには何の役にも立たないものでしかありませんでした。金持ちの死と言う出来事によってその平和が偽りのものであったことが明らかになったからです。

 この金持ちと同じように世の人々は自分が築き上げた平和が奪われないように、そして無くならないようにと必死に守ろうとしています。だから、彼らは主イエスの語る神の国の福音を、自分たちが守っている平和を危うくするものと考えて、抵抗し、反逆したのです。ここでイエスが語られている分裂の姿はそのような人々の有様を表していると言えます。


4.永遠の命を求めて旅立った私たち

「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、/母は娘と、娘は母と、/しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、/対立して分かれる。」(52~53節)

 ここに語られている出来事は実際にイエスの生涯の中でも起こったことを聖書は報告しています。イエスが神の国の福音を人々に語り始めた時に、彼の家族たちはそのことを理解することができずに、イエスを呼び出して問い質そうとする出来事が起こりました(マルコ3章31~35節)。イエスとイエスの家族の間にも実際に分裂が生じていたのです。

 ジョン・バイヤンと言う人が記したキリスト教文学の古典の一つ「天路歴程」の最初に次のような物語が記されています。主人公は聖書を読んで自分が永遠の死の滅びの刑罰を受けざる負えない罪人であることを知ります。そして彼はそのことで悩み始めます。しかし家族はそんな悩みなど一晩眠れば治ると説得します。ところが主人公が寝床に着こうとしても、彼の悩みは深まるばかりで一睡もすることができないまま朝を迎えます。そしてこの境遇に堪えられなくなった主人公は永遠の命を求めて信仰の旅に出発することを決心します。しかし、この旅立ちの際も家族や近所の人々は口を揃えて、彼の愚かなふるまいを非難し、また、正気を取り戻して引き返すようにと説得しつづけます。そこで主人公は両耳に指を入れて、その人々の声が耳に入らないようにしながら「永遠の命、永遠の命」と叫びながら自分の慣れ親しんだ町を脱出するのです。

 この教会の礼拝に長く出席され、今は天国の住民となられた一人の婦人が何度も語っていたことを思い出します。日曜日の朝、その婦人が身支度を整えて教会に行こうとすると、近所の人から「どちらにお出かけですか」と尋ねられると言うのです。そしてその婦人が「教会の日曜礼拝に」と答えると、「あら、結構なご身分なこと…」と言われると言うのです。

 私たちが日曜日の礼拝にかかさず出席するのは、私たちのために十字架にかかり、私たちに永遠の命の祝福を与えてくださった主イエス・キリストに感謝をささげるためです。そしてその主イエスが与えてくださる真の平和を受けて、人生を送ることができるためです。しかし、その福音を知らない人々は私たちの行動を全く理解することができません。そればかりか、時には信仰を持つ者を非難したり、変人扱いしたりすることも起こるのです。

 主イエスはこのような中でも私たちが神を信じて、確かな地上の人生を送ることを勧めています。なぜなら、私たちを罪と死の呪いから解き放って、私たちに命を与えることができる方はこの主イエスお一人しかおられないからです。そしてその主イエスを信じる者に神から真の平和が与えられるのです。ですからそのような祝福された人生を私たちが送るためには、偽りの平和にしがみつくことを止め、神の前に悔い改めて、主イエスを信じ続ける信仰生活を送ることが必要なのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.主イエスはご自分が来られた理由についてここで何と説明されていますか(49節)。

2.旧約聖書などでは「火」は神の裁きを象徴して用いられることがあります。ここで語られている主イエスの言葉から、その投ずる火は何であることが推測されますか(49節)。

3.主イエスが地上で受けなければならないものとは何ですか。それは主イエスの生涯にどのように実現しましたか(50節)。

4.主イエスは私たちに「地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と語られました。主イエスはこの言葉によって私たちの人生にどのような警告を与えていると思いますか(51節)。

5.主イエスは今から後、どのようなことが起こるとここで預言されていますか(52~53節)。この言葉のようなことをあなたは実際に体験したことがありますか。

2025.8.17「分裂をもたらす平和の主」