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2025.8.10「洗礼とキリストの血」 YouTube

ローマの信徒への手紙6章3~4節(新P.280)

3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問70 キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか。

答 それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです。


1.クリスチャンとしての出発点

 私が持っている洗礼証明書には1979年10月7日と言う日付が付けられています。つまり、私が洗礼を受けてクリスチャンになってからすでに46年もの年月が流れたと言うことになります。今は私の記憶の片隅に残る当時の教会生活の中で、ひときわ鮮明に残っている思い出は私が受けた洗礼式の情景です。当時、小さな日本家屋を使った教会堂で、普段はそこにすむ牧師が使っていた木で作られた風呂桶の中で私の洗礼式は執り行われました。すでに季節は10月になっていたので、私は風呂の水の冷たさを心配していました。そこで私が牧師に、「少しお風呂の水を温めておいてくれませんか…」と相談したところ、「だめ、それではぬるま湯信仰になってしまうから…」という冗談のような答えが返って来たことを思い出します。案の定、風呂桶の水は冷たかったはずですが、私は緊張していたせいか、その水の冷たさもさほど感じることはありませんでした。しかし、その時に風呂桶の中で正座させられ、牧師から頭の後ろを押されつけられて全身が水の中に沈められたとき、どういう訳か私の頭が少し水面から出ていたと言うことで、私は水から頭を上げようとしたときに、さらに頭を押さえつけられて水に沈められました。それに驚いた私は水をしこたま飲んでしまうことになりました。ですから私は「風呂の中で溺れて死ぬかと思った…」とそこに集まった人たちにこの後の洗礼式の証しで語ったのです。

 それから半世紀近い歳月が流れました。今、このハイデルベルク信仰問答であらためて洗礼が示している霊的な意味を学ぶ機会が与えられ、自分はこのような意味を知らないままに洗礼を受けていたのだなと思わされました。当時の私は洗礼を受けてクリスチャンの仲間入りができたという感動と共に、これからどんな信仰生活が始まるのだろうかという期待とさらにはそれを上回るような不安を強く感じていました。「自分は本当に神様に喜ばれる模範的なクリスチャンになれるのだろうか…」。「生涯に渡って本当に信仰生活を続けることができるのだろうか…」という不安を感じていたのです。そしてハイデルベルク信仰問答はこのような不安を抱く者に、慰めと励ましを与えるものだと言えるのです。


2.洗礼の示す霊的な意味

 ハイデルベルク信仰問答は問69で「洗礼を受ける者が十字架上でのキリストの唯一の犠牲からどんな益を受けることができるか」と言う問いに答える形で「わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ」と説明しています。ですから今日の問70はこの説明を受けて「キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか」と言う問いを続けています。

 洗礼は人の目から見ると単なる教会への入会儀礼の一つと映るかもしれません。しかし、洗礼は私たちの目には見えませんが、神の救いの御業が私たちの上に確かに実現したことを表す印であるとも言えるのです。それでは私たちが「キリストの血と霊に洗われる」とはどのような神の御業を表しているのでしょうか。また、それは私たちの洗礼で始まった信仰生活にどのような影響をもたらすものとなるのでしょうか。

 先ほど私は自分の洗礼式の思い出の中で「溺れて死ぬかと思った…」と言うことをお話しましたが、実はこの洗礼式は古い自分の死とその新たな再生、つまり生まれ変わりを体験する儀式であると考えることができるのです。洗礼志願者は水に沈められることで古い自分に死に、またその水から上がることで新しく生まれ変わることになるからです。そしてその意味を詳しく教えるものとして信仰問答の中で用いられているのが「キリストの血と霊」と言う言葉なのです。


3.キリストの血によって罪が清められる

①雪のように白くされる

 あるとき洗礼を受けたある人がその感動のあまり「万歳、これで自分に死ぬことができたぞ」と叫びました。するとその言葉を聞いた別の人が「それなら、今、その言葉を語っているの誰なの」と聞き返したと言うのです。使徒パウロも聖書の中でこのように語っています。

「わたしは、キリストと共に十字架につけられています」(ガラテヤ2章20節)。

 イエス・キリストは私たち罪人の代表者として十字架につけられ、そこで命をささげてくださいました。これは自分の犯した罪のために死の刑罰に受けなければならない私たちに代わって、その刑罰を受けられたことを表しています。そして信仰問答が語る「キリストの血」とはキリストの命を表す言葉であると言えます。ですからこのキリストが十字架で死なれたということは、罪人である私たちもそこで十字架につけられて死んだと言うことになるのです。

 裁判の制度で「一事不再理」と言う原則があると言います。一度、判決が確定した事件を再び裁くことはできないと言う決まりです。この原則は聖書の世界でも通用しています。私たちの犯した罪はすべてキリストによって命によって償われたので、私たちはその罪のために二度と裁きを受けることはありません。私たちは完全に無罪とされたのです。

 詩編の記者は次のような言葉を語ります。

「ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください/わたしが清くなるように。わたしを洗ってください/雪よりも白くなるように」(51篇9節)。

 私たちはこの言葉がイエス・キリストの十字架の出来後を通して私たちの人生に実現したことを信じることができるのです。十字架でキリストが流された貴い血によって、罪人である私たちは洗われ、今まで罪を犯したことのないキリストと同じように「雪のように白く」されたのです。そしてその私たちは決して二度と罪によって汚されることはないのです。


②私たちの犯すすべての罪が赦された

 中世時代のヨーロッパではほとんどの人はこの世に誕生すると同時に、教会で洗礼を受けました。これはほとんど強制的なものであったと考えられています。そして当時のカトリック教会は人が洗礼を受けて赦されるのはそれまでに犯した罪に限るのであって、洗礼を受けた後に犯した罪についてはさらに別の方法で神から赦しをいただかなければならないと教えました。私たちプロテスタント教会では聖礼典は洗礼と聖餐の二つしかないと主張しますが、カトリック教会はこの二つを含めて聖礼典は全部で八つあると教えています。この原因は洗礼の示す恵みを軽く考えてしまっているせいかも知れません。

 しかし、私たちの罪を赦し、私たちを雪のように白く清めることができるのはキリストの血のみであると信仰問答は教えています。つまり、洗礼を受けた者が赦しを受けるのは、私たちの今まで犯して来た罪だけではなく、これからの生涯で犯される罪のすべてが含まれているのです。そのような意味で私たちの信仰生活は、自分の犯した罪を赦していただくための償いの生活ではなく、自分の全生涯で犯す罪のすべてを完全に赦された者がささげる感謝の生活であると言えるのです。


4.霊にあずかることによって始まる信仰生活

 次に信仰問答は「キリストの血」と共に「キリストの霊」によって私たちは洗われると教えています。この言葉で洗礼を受ける者の人生が「聖霊によって新しくされる」ことについて説明しているのです。別の言葉でいれば、これは洗礼で始まる私たちの信仰生活を成り立たせるものは何かと言うことを教えているとも言えるのです。

 私は子どものころから父に「お前は何をするにも三日坊主で辛抱が足りない。もっと頑張りなさい」とよく言われました。辛抱は足りませんでしたがその反面で「要領がよい」と言うのでしょうか、いつでも努力せずに済ます方法を捜すのが得意でした。しかし、洗礼を受けて信仰生活に入ったときに、私が一番に思ったことは、「こんな自分でもずっと神様を信じ続けることができるのだろうか」と言う心配でした。信仰生活が自分の努力によって成り立つものと考えるならば、我慢の足りない私にはそれを続ける自信がなかったのです。

 信仰問答は次のように説明しています。

「さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります」。

 私たちが「キリストの一部分として聖別される」とは、私とキリストが一つの体のように結びつくことで始まる私たちの人生の大転換を表しています。それはこの信仰問答が第一問で語っているように、「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであること」と言う慰めに満ちた信仰生活が始まることを意味してもいるのです。

 私たちの信仰生活を成り立たせるのは私たちの努力ではありません。イエス・キリストが十字架にかかり命をささげてくださることで、私たちと神との交わりが回復しました。そしてそのイエス・キリストによって私たち一人一人に天から聖霊が与えられ、その聖霊が私たちの信仰生活を導いてくださる人生が始まったのです。

 ですから洗礼は自分に自信がある人だけが受けるものではりません。むしろ、自分の力では自分の人生を変えることができないと感じている者が、その人生をイエス・キリストだけが変えてくださると信じて受けるものなのです。そして、イエス・キリストはそのよう信じて洗礼を受ける者に、実際に聖霊を与えてくださり、その信仰生活を導いてくださるのです。

 信仰問答はこの聖霊が「わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むため」に働いてくださると教えています。そして聖書はこの聖霊が私たちの人生に働いて最後には私たちを「御子(イエス・キリスト)に似た者となる」(ヨハネ一3章2節)ようにしてくださると約束しているのです。

 信仰問答はこの聖霊の働きの過程を「次第に次第に罪に死に」と語っています。この言葉のように聖霊の働きは人によってそのスピードも働き方も違うのかも知れません。ただ、私たちが確信できるのは、どのような人もイエス・キリストを信じるなら、必ずその人の上に聖霊が働いて信仰のゴールまで導いてくださると言うことです。

 ですから私たちが教会で受ける洗礼はこのような意味で、第一にキリストの血によって私たちの犯したすべての罪が赦されことを示し、また第二にキリストの霊によって、私たちの新しく始まった信仰生活が最後のゴールまで導かれると言う神の御業が、私たちの人生の上に確かに実現したことを私たちに示すものだと言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答問70の本文を読んでみましょう。

2.信仰問答は洗礼がただの外面的な儀式ではなく、ある霊的な意味を私たちに教えていると言います。それは何ですか。

3.信仰問答は洗礼が示す霊的な意味を「キリストの血」と言う言葉を使ってどのように教えていますか。

4.同じように「キリストの霊」と言う言葉を使って、どのような霊的な意味を教えようとしていますか。

5.この信仰問答の解説は、あなたが考えて来た「洗礼」についての疑問や誤解を解くために役に立つものとなりましたか。

2025.8.10「洗礼とキリストの血」