2025.7.27「主よ、祈ることを教えてください」 YouTube
ルカによる福音書11章1~13節(新P.127)
1 イエスはある所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに、「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と言った。
2 そこで、イエスは言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、/御名が崇められますように。御国が来ますように。
3 わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。
4 わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから。わたしたちを誘惑に遭わせないでください。』」
5 また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。
6 旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』
7 すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』
8 しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。
9 そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
10 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
11 あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。
12 また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。
13 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」
1.私たちにも祈りを教えてください
今日の聖書の箇所では、私たち神を信じて生きる者たちにとって最も大切な「主の祈り」の文章が記されています。この「主の祈り」は今日のルカによる福音書の箇所ともう一か所、マタイによる福音書(6章)にも記されています。そして私たちが普段礼拝でささげている「主の祈り」の文章はマタイによる福音書の伝えるものから作られていると考えられています。このマタイの文章に比べて、今日私たちが学ぶルカによる福音書が伝える「主の祈り」の文章はより簡潔なものとなっていることが分かります。現代の聖書学者たちの見解によればこのルカによる福音書の方が、イエスが教えてくださったオリジナルな祈りの文章に近いと言います。マタイは本来のイエスが教えてくださった「主の祈り」に何らかの補足を加えたと考えられているからです。
その真偽はともかくとしてまず、今日の文章を読むとこの「主の祈り」は弟子たちが「わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったことに対してイエスが与えて下さった祈りだと言うことが分かります(1節)。弟子たちはイエスが祈っている姿を見て、「自分たちもイエスのように祈りたい」と思ったのかも知れません。さらに弟子たちがここで「ヨハネが弟子たちに教えたように」と言う言葉を語っています。当時の宗教指導者たちは自分に従う弟子たちに対してそのグループ特有の祈りを教えていたと考えられています。つまり、その祈りを教えてもらったと言うことは自分がその先生の弟子であるという証拠を示す役割を持つことになります。また、その同じ祈りを祈り合う者たちが同じ師に従う仲間たちであることを表す意味もあると言えるのです。ですから私たちが「主の祈り」を祈るということは、私たちが確かにイエスの弟子の一人としていただいていることを表すとともに、同じ祈りを祈り合う人々が信仰の仲間たちであることを表していると言うことができるのです。私たちがたとえ一人でこの「主の祈り」を祈っていたとしても、その私と共に今、私たちの師であるイエスがおられること、また世界中でこの祈りをささげている信仰の仲間がいることをこの祈りは私たちに教えているのです。
時々、「自分は今、精神的に混乱していて祈る言葉も出てこない」と言う方に「「主の祈り」を祈ればよいですよね…」と聞かれることがあります。厳しい試練の中で祈ることもできないときにこの「主の祈り」は、そのような私たちを支えてくれる祈りとなるとも言えるのです。もちろん、主の祈りは決して悪魔除けの呪文のようなものではありませんが、この祈りは試練の中でも、私たちに主イエスが共にいてくださることを教えてくれるものだと言えるのです。
2.父よ
①イエスに救われた者たちのための祈り
この主の祈りは「父よ」と言う言葉で始まっています。これは言葉を覚え始めた子どもが初めて自分の親を呼ぶときに使うような言葉です。この言葉は大人の使う言葉とは違う「幼児語」と言うものです。当時のユダヤ人たちは神をこのような言葉で呼ぶことは決してなかったと言われています。彼らにとってはその名を親しく口に出すのもはばかられるような、神は畏れ多い存在であったからです。おそらくこのユダヤ人たちのために福音書を記したとされているマタイは、その理由のためにこの「主の祈り」の呼びかけの部分を「天の父よ」、あるいは「天にましますわれらの父よ」と言う言葉に替えてユダヤ人たちを躓かせないように配慮しようとしたのかも知れません。
いずれにしても神を「父よ」と呼ぶの当時のユダヤ人たちには考えられないものでした。つまり、この呼び方は神の真の子どもであるイエスにしか許されないような言葉なのです。ですからこのイエスの使った同じ言葉で私たちが神を「父よ」と呼べるということは私たちにとって決して当たり前のことではないのです。またもし、私たちが神を「父よ」と呼べたとしても、その私の祈りに神が答えてくださる保証はどこにもありません。ですから、私たちが神を「父よ」と親しく呼びかけることができること、またこのお話の後半の部分でも強調されていますが、その私たちの祈りに神がわたしたちの「父」として必ず答えてくださると確信できるのは、この祈りを私たちに与えて下さった主イエスにあると言えるのです。なぜなら、主イエスが御自分の命に代えて私たちのために回復してくださったものは、私と神との親しい関係だからです。ですから、私たちが確信を持って私たちの神を「父」と呼ぶことができるのは、主イエスが私たちのために救いの御業を実現してくださったからです。そのような意味で私たちはこの主の祈りを、主イエスに救われた者として感謝と喜びを持ってささげることができるようにされているのです。
②神に赦されている者のための祈り
主の祈りの内容についてはこれからも繰り返し取り上げる機会があると思いますので、詳しい説明は今日、この場では差し控えたいと思います。ただ「わたしたちの罪を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/皆赦しますから」(4節)と言う部分について少しお話したいと思います。なぜなら、主の祈りの願いの中でここには唯一、私たちがすべきことが記されているからです。意外と多くの人はこの「主の祈り」の言葉を読んで「自分の罪が赦されるための条件として、人を赦すことが必要だ」と考えてしまいますが、それは誤りであると言えます。なぜなら、私たちは自分の力では人を赦すことができない、無力な罪人でしかないからです。ですから、この祈りは私たちの罪が神に赦されていると言う前提のもとに、教えられている祈りと考えてよいのです。私たちは自分の罪が神に赦されているからこそ、その証拠として人を赦すことができるのです。確かに神に救われた私たちも、人を赦すことの困難さを日々、覚えています。しかし、そのとき自分の力の無力を嘆くだけではなく、私たちが神に赦されているという恵みの事実に立ち返り、その神の恵みの力によって人を赦すことができることを私たちは覚えたいのです。なぜなら、この聖書箇所の結論にもあるように、神は私たちが人の罪を赦すことができるためにも聖霊を与えてくださるからです。
3.しつように頼め
さて、この主の祈りの後には祈りについて教える主イエスのたとえ話が語られています。あるとき、旅行中の友人が突然訪問して来たのに、何の準備もないのでその友人をこのままではもてなすことができない非常事態が起こります。聖書にも「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」(ヘブライ13章2節)と記されているようにユダヤ人にとって旅人をもてなすことは決して怠ってはならない大切なことでした。ところが、そのためにパンを借りに行った隣人にはそのような理由は通用しませんでした。ここでその隣人は「そんな面倒に関わりたくない」という姿勢を貫きます。このお話の結論はイエスが語った「しつように頼めば」と言う言葉にあるようです。ですからこのお話は友人としての同情に訴えるのではなく、強引さこそが人を動かすと教えているように思えるのです。
まず、皆さんに間違いないでほしいのは強引にでもしなければ決して動かない隣人が私たちの神ではないと言うことです。それは主の祈りの教えとも、また後半部のたとえの結論「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)と言う言葉とも矛盾してしまいます。実はこの無慈悲な隣人のたとえ話はルカにはありますが、マタイには記録されていません。そこでこのお話は神に祈るということを子どものときから学び、実行して来たユダヤ人に対して語ったものではなく、ルカが相手にした異邦人たちに「祈ることとはどういうことか」を教えるために書き記されたと考えることができます。
実はこの「しつように」と訳されている言葉のギリシャ原語にはもっと違う意味があります。それは「恥も外聞もなく」と言う意味を表すと言うことです。「こんなことをしたら人目がはばかられる」と考えて私たちは普段、自分の行動や言動を制御したりします。そのため自分の本音を心の底深くに隠したまま、何もなかったようなそぶりをして暮らすことがあるのです。もちろん、集団生活を維持するためにはこのように生きることも大切になって来るのかもしれません。しかし、ここで問題とされるのは神に対する祈りの姿勢です。皆さんは神の前で自分の本音を隠して善い子に振る舞うことがあるでしょうか。このたとえ話は私たちにその必要がないことを教えているのです。ですから人には決して言えないことであっても、神には大胆に祈ることができるし、またそのようにすべきであるとイエスは教えてくださったと考えることができます。だからこそ主イエスはこのたとえに続いて「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9~10節)。
私たちは神に祈るときは「恥も外聞もなく」祈ってよいのです。イエスはそのような私たちの祈りに神が必ず答えてくださると教えてくださっているからです。
4.聖霊を与えてくださる
主イエスは最後にもう一つのたとえ話をここで語っています(11~13節)。それは父親が自分の愛する子どもの願いに対してどのように対応するかと言うお話です。ですから、このお話も「主の祈り」の中で私たちが神を「父よ」と呼ぶことができると言うことと繋がっていると言ってよいと思います。なぜなら、私たち一人一人は神によって愛されている子供たちだからです。神はそのような私たちの祈りを無視したり、また私たちのためにならない答えを与えることは決してありません。
まことの神を知らない異邦人も祈ることがあります。しかし、その祈りの目的は単に自分の願望をかなえることに向けられています。祈りは自分の願望をかなえるための一つの手段と考えらえているからです。ある牧師は「これは通常の努力や労力を使わないで目的のものを獲得しようとする魔術のようなものだ」と説明しています。私たち日本人もそのような祈りには慣れ親しんできました。子供のころから神社やお寺に行ってお参りをして、願掛けを行います。その願いがかなえられると「これはよい神様だ」と言い、そうでないと「この神様は役に立たない」と考えるのです。
主イエスはまことの神はそのような方ではない、またその神にささげる祈りの目的はそのようなものではないと教えているのです。なぜなら、真の神は私たちの父親として、愛する子どもたちの願いに耳を傾け、その子供のために最も善いものを与えてくれるからです。私たちも自分たちの子どもの願いを聞くことがあります。しかし、そのときに私たちが子どもの願い通りのことを適えることができたとしても、それがその子ために最も善いものであるかどうかは私たちには分かりません。だから返って子どもたちを不幸にしてしまう原因を作ってしまうこともあり得るのです。
私たちの神は、そのような方ではありません。必ず私たちの願いに答えて、最善のものを与えてくださる方なのです。だから私たちもこの方を信頼して、安心して祈りをささげることができるのです。なぜなら、たとえ神が私たちの願い通りの答えてを与えてくださらなかったとしても、私たちの思いをはるかに超えた最善の答えを私たちに与えてくださる方であることを私たちは主イエスから教えられているからです。
「このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」(13節)。
主イエスは私たちの祈りに対する父なる神の最善の答えを「聖霊を与えてくださる」と言う言葉で説明しています。すでに、私たちはこの聖霊の働きについて何度も学んで来ました。聖霊は主イエスが十字架の御業を通して勝ち取ってくださったすべての恵みを、私たちに与えてくださる方です。私たちと神との関係を生き生きとしたものにするために、聖霊は私たちに働いてくださるのです。
そのような意味で、私たちが天の神を「父よ」と親しく呼ぶことができ、祈りの言葉さえ思い浮かぶことのできないような試練の中でも、主の祈りを祈ることができるのはこの聖霊の働きによるものです。また、私たちが天の父なる神に対して「恥も外聞もなく」、心にある本当の気持ちを祈ることができるのもこの聖霊が働いてくださるからです。また、たとえ私たちの祈り通りの答えが私たちに与えられなかったとしても、神は私たちにとって最善の答えを与えてくださると信頼して、祈り続けることができるのもこの聖霊の働きによるものなのです。私たちの祈りはそのような意味で異邦人がささげる祈りとは全く違うものであると言えます。なぜなら、神は祈る私たちに聖霊を与えてくださることで、私たちの人生を支え続けてくださる方だからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスはいつ、どのような理由で「主の祈り」を弟子たちに教えてくださったのでしょうか(1~2節)。
2.この祈りの中で主イエスは私たちが神を何と呼ぶことを求められていますか(2節)。
3.イエスのたとえ話(5~8節)でこのお話の主人公はどのような理由で友人のところに行く必要がありました。友人は彼の願いにどのように応じました。結果的にこの友人がたとえ話の主人公のために動いた理由はどこにありましたか。
4.主イエスは私たちが神に祈ることの大切さを9節から10節でどのように教えてくださっていますか。
5.主イエスは子どもの願いに答える父親のたとえを使って、天の父が私たちのささげる祈りにどのように応じてくださることを教えていますか(11~13節)。
6.私たちの祈りに対して最善のものを与えようとしてくださる神は、私たち何を与えてくださるとイエスは言っていますか。