2025.7.20「忙しさの中で本当に大切なこと」 YouTube
ルカによる福音書10章38~42節(新P.127)
38 一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
39 彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
40 マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
41 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
42 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」
1.性格の違う二人の姉妹
①マルタとマリア、その弟ラザロ
今日はイエスの語られた「必要なことはただ一つである」と言う言葉について学びます。この言葉はルカによる福音書が伝えるイエスに関する一つの物語の中に登場しています。その聖書によればこの物語はイエスと弟子たちがエルサレムの都に向かう旅の途中で起こったものだと説明されています。ここに登場するマルタとマリアの姉妹についてはヨハネによる福音書にもこの姉妹を巡る別の物語が記されています(ヨハネ11章)。それによればこの姉妹にはもう一人ラザロと言う名前の弟がいたことが分かります。さらに彼女たちの住んでたのはベタニア村と言うエルサレムの近くにあった小さな村であったことも分かります。ヨハネによる福音書では彼女たちの弟のラザロが病気になったと言う報せを聞いた弟子たちがイエスに対して「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」(11章3節)と語ったと記されています。この弟子たちの言葉からもマルタとマリアの姉妹とその弟ラザロの一家とイエスとの関係が特別なものであったことが分かります。もしかしたら、今日のルカによる福音書の物語はこの姉妹たちとイエスとの愛の関係がどのように始まったのかを私たちに教えているのかも知れません。
②大切な役割を演じた姉マルタ
何時の時代でも変わらず兄弟、あるいは姉妹の関係はとても複雑であると言えるかも知れません。同じ親から生まれ、同じ環境で育った最も身近な関係でありながら、たとえばその親の愛情を奪い合うことで争うようなことが兄弟や姉妹の間でも度々起こります。挙句の果てには親が残した遺産を巡って激しく争い、憎み合うと言うことも起こります。この物語に登場するマルタとマリアの関係も決して「仲の良い」と言う言葉だけでは言い表せない、複雑なものであったのかも知れません。
この物語の中では姉のマルタは一家の主人のような役目を果たしており、イエスを自分の家に迎え入れて忙しく働いています。しかし、もう一方の妹のマリアは姉が忙しく働いている姿を知りながらも、その姉を手伝うこともせずに、イエスの前に座り込んでその話に耳を傾けています。皆さんなら、この姉妹のうちどちらが自分に似ていると思われるでしょうか。もし「自分は姉のマルタに似ている」と思ったとしても、「自分もイエスさまから褒められるような生き方ができていない…」と考えて、落ち込まないようにしてください。なぜならこの物語の中で「マルタ、マルタ」とイエスから愛情を込めて呼びかけられているのは姉のマルタであり、さらに聖書がここに書き留めているイエスの言葉は、イエスの足元でその言葉に耳を傾けた妹マリアが聞いた言葉ではなく、姉のマルタに語られたイエスの言葉だからです。そのような意味で姉マルタの存在はこの物語の中でなくてはならない大切は役目を果たしていると言うことができるのです。
2.不満を抱くマルタ
①ユダヤ教超正統派
最近、イスラエルと周辺国との争いが頻繁にニュースを騒がせています。これも実はテレビで見て知ったことなのです。その世間を騒がせているイスラエルでは現在、ユダヤ教の「超正統派」と呼ばれるグループの存在が大きな問題を引き起こしていると言われています。皆さんも、もしかしたら、黒い帽子と黒いスーツを着て、伸ばしたもみあげをカールさせている「超正統派」に属する男性たちの姿をテレビでご覧になったことがおありかも知れません。彼らは「本当のイスラエルは神から遣わされたメシアが再建するものであり、現在のイスラエルは人間が作った偽物だ」と主張する人たちだと言われています。そのためか彼らはイスラエルの国民に義務とされている兵役に就くことも拒否しているのです。
超正統派の人たちが最も問題になるのはその日常生活の送り方にあります。なぜなら彼らは聖書が教える律法を学び、またそれを厳格に守ることが自分たちの生きる使命だと主張し、世俗の仕事に一切就こうとはしないからです。そうなると世俗の仕事に就かない彼らの家庭を支えるのは女性の役割となります。超正統派に属する女性はたくさんの子どもを産み、その子たちを育てるために熱心に働きます。しかし、彼女たちがどんなに働いても豊かな収入を得ることはできません。その結果、超正統派の家庭は国家からの生活保護を受けることになります。つまり、一般のイスラエルの人々から見れば、国民の義務も果たさないのに、国家からの生活保護を受けて生きている彼らの存在がどうにも許すことができないのです。しかし、子沢山の家庭を抱える超正統派の人々の人口は今やイスラエルの一割を超すものとなり、さらに増加する傾向にあると言われているのです。
②思い悩み、心を乱したマルタ
今日の物語の中ではイエスの足元に座り、その教えに耳を傾けることだけで時間を過ごした妹マリアの生き方だけが評価され、忙しくお客をもてなすために働いて時間を過ごした姉マルタの方がイエスから非難されていると言うように見えます。しかし、考えてみるとイエスの足元でその話に妹マリアが耳を傾けることができたのは、姉マルタが賢明な働きで一家を支えていたからだと考えることができます。そう考えるとイエスがここで語った「必要なことはただ一つ」と言う言葉は、イエスの言葉に聞き入ったマリアのような生き方だけが認められ、お客をもてなし、一家の暮らしを懸命に支えたマルタの生き方を否定するものだと考えると誰もが納得のいく言葉とはなり得なくなります。イエスはいったい、ここでマルタの何を問題だと考えてこのような言葉を語られたのでしょうか。それはこの言葉の直前でイエスがマルタに語った言葉が明らかにしています。
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(41節)。
どうやら、このときのマルタの心にはさまざまな思いがあって、それが彼女の心を乱し、あるいは混乱させ、彼女の心を疲れさせていたと考えることができます。それではマルタはこのときいったい何を考えていたのでしょうか。その一端をマルタが語ったイエスに対する言葉が明らかにしています。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」(40節)
マルタは自分にだけ客のもてなしをさせて、その自分を手伝おうとしない妹マリアの行為に腹を立てています。しかし、それ以上に彼女の腹の虫が収まらないのはそのよう妹マリアの姿を知りながら、そのマリアを全く注意せずに放置するイエスの態度でした。
マルタがこう考えるのもある意味当然なことと言えるかも知れません。なぜなら、先ほど話題にした現代のユダヤ教の超正統派の人たちの場合と同じように、当時もユダヤ人の伝統的な考えによれば、聖書を学び、その教えに従うのは男性の役割であり、女性はその男性が安心して神に仕えることができるように支えるというのが役目だと考えられていたからです。つまり、ユダヤ人の伝統に従えば、女性なのに男のようにイエスが語る神の話に耳を傾ける妹マリアの方が悪く、お客のために懸命にもてなしをする姉マルタの方がほめられるべき存在であったと考えることができます。
しかし、ここで忘れてはならないのはなぜ、マルタは妹マリアやイエスのことで「思い悩み、心を乱す」ことになったのかです。彼女の混乱の本当の原因がどこにあったのでしょうか。皆さん、ここで少し考えてみてください。あなたが今一番熱中して、楽しみにしていることができているときに、もし他の人が自分と同じことをしなかったとしても腹を立てる必要があるでしょうか。おそらく、あなたはそんな人に対して「こんな楽しいことをしたくないなんて…。残念ね」と同情はしても、その人を非難することはしないはずです。つまり、そのことを考えるとマルタの問題の原因は自分が本当にしたいことができず、世の常識や伝統、そして自分を他人が見る目を気にして自分がしたくない別のことをせざるを得ない状態にあったと言うことが分かるのです。それに比べて妹マリアはただイエスの言葉に耳を傾けています。決してそれをしない姉マルタに「おねえちゃん。もっと静かにして」などという非難の言葉を語っていないのです。これは彼女が今、一番に自分がしたいことを選ぶことができていたからです。
3.必要なことはただ一つ
しかし、ここでイエスがいった「必要なことはただ一つ」と言う言葉を、自分が今一番したいことをすると早合点してしまえば、そこにはさらに大きな問題が生まれて来るかも知れません。今日は参議院選挙の投票日です。この選挙権は国民に与えられている大切な権利です。それなのに「自分には選挙よりやりたいことがある」と言って、みんなが投票所に行かなくなったら、民主主義は一瞬にして崩壊してしまうかも知れません。「日曜日には教会に行って礼拝をするよりも、他にもっとやりたいことがある」と言う人ばかりになれば、この教会の礼拝には誰も出席しなくなってしまいます。
先日、フレンドシップアワーでテモテの手紙一を学んでいたときに、そこでパウロが記した「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。善を行い、良い行いに富み、物惜しみをせず、喜んで分け与えるように」(6章17~18節)と言う牧師であったテモテに送ったアドバイスを読みました。
当時、この牧師テモテが働いたエペソの町は繁栄した商業都市で、教会員の中にも事業で成功して、たくさんの財産を持つ人がいたようです。しかし、パウロはそのような人に向かって「不確かな冨に望みを置くのではなく…、神に望みをおくように」と勧めています。なぜなら、この世の富は私たちの生活を一時的に豊かにできたとしても、私たちの罪を解決し、私たちを救い出し、私たちに永遠の命を与えることはできないからです。
そこで、このパウロの言葉をヒントにして今日のイエスの「必要なことはただ一つ」と言う言葉を考えてみると別の解釈が可能となります。イエスが「必要なことはただ一つ」と言っているのは私たちを罪から救い出し、永遠の命を与えることができるキリストの福音であると言えるからです。つまり、イエスが「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(42節)と語られたのは、マリアがこの福音を見出して、それによって救いを受けることができたことを言っているのです。そして、イエスは姉マルタに対しても妹マリアと同じように、イエスの福音を受け入れて、神の救いを受け、永遠の命に生きるものとなってほしいと願われ「必要なことはただ一つ」と言う言葉をマルタにも語られたと考えることができるのです。
4.喜びを持って仕えるために
このように考えると「マルタ、マルタ」と親しく彼女の名前を呼び掛けて語られたイエスの言葉はそのマルタの取った行動を非難したり、それを否定する言葉ではないと言うことが分かります。イエスはマルタを心から愛されて、そのマルタにご自分が提供する救いを受け入れてほしいと願われたのです。なぜなら、イエスはこれからエルサレムに向かい、そこで十字架にかかり、命をささげることで、その救いの計画を実現させようとしていたからです。だからその御自分の命をささげることで実現する救いをどうしても姉マルタにも受け取ってもらいたいと願われたのです。
先ほど、取り上げたパウロはローマの信徒への手紙の中でキリストの福音を受け入れて、その救いにあずかることができた者すべてに対して次のような勧めの言葉を語っています。
「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12章1節)。
ここでパウロはイエスによる救いを受けた者たちが、これからどのように生きるべきかを教えています。もし、マルタがこのときイエスの足元に座り、その御言葉に耳を傾けて、イエスの福音によって救われている自分を知ることができたなら彼女はどうなっていたでしょうか。彼女は自分を救ってくださったイエスに対して自分のできる限りの力で最上のもてなしをしたいと考えたはずです。そしてマルタにはそれができる賜物が豊かに与えられていました。その賜物を人に対する不平や不満を語ることで台無しにしてしまったら、それはとても残念なことなります。イエスは誰よりもマルタがその素晴らしい賜物を神からいただいていることを知っていたはずです。だからイエスはマルタがその賜物を喜んで使うためにも、「必要なことはただ一つだけである」と言う真理の言葉を語ってくださったのです。
このような意味でイエスが伝えてくださる福音は、私たちの毎日の生活を変えるものでもあると言えます。今までのように世の常識に縛られて、私たちがしたくないことを無理にすることで思い悩みや心を乱す生活から、神様から救われたという喜びを持って、毎日の生活を生きるができるようにしてくださるのです。そして私たちが自分に与えられた賜物を使って神のために生きることができるようにしてくださるのです。そして私たちが今、聖書を通して聞いている福音はそのような人生をイエスが十字架の出来事を通して私たちに実現した下さったことを教えているからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスと弟子たちの一行はエルサレムへ旅を進めながら、このときある村のどのような家に迎え入れられましたか(38節)。
2.この家の姉マルタはこのときイエスのために何をしましたか(40節)、また妹マリアは何をしましたか(39節)。
3.マルタはイエスのそばに近寄って何をイエスに語りましたか(40節)。
4.イエスはこのマルタの言葉に何と答えられましたか。この言葉からこのときのマルタがどのような状態に陥ってしまっていたことが分かりますか(41節)。
5.イエスが語る「必要なことはただ一つだけである」と言う言葉をあなたはどう理解しますか。このとき妹マリアが選ぶことができ、姉マルタが選ぶことができなかったものとは何でしょうか。