1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2025
  4. 7月13日「洗礼について」

2025.7.13「洗礼について」

テトスへの手紙3章4~7節(新P.398)

4 しかし、わたしたちの救い主である神の慈しみと、人間に対する愛とが現れたときに、

5 神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

6 神は、わたしたちの救い主イエス・キリストを通して、この聖霊をわたしたちに豊かに注いでくださいました。

7 こうしてわたしたちは、キリストの恵みによって義とされ、希望どおり永遠の命を受け継ぐ者とされたのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問69 あなたは聖なる洗礼において、十字架上でのキリストの唯一の犠牲があなたの益になることを、どのように思い起こしまた確信させられるのですか。

答 次のようにです。キリストがこの外的な水の洗いを制定された時、約束なさったことば、わたしがわたしの魂の汚れ、すなわち、わたしのすべての罪を、この方の血と霊とによって確実に洗っていただける、ということ。そして、それは日頃体の汚れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです。

問70 キリストの血と霊とによって洗われるとは、どういうことですか。

答 それは、十字架上での犠牲においてわたしたちのために流されたキリストの血のゆえに、恵みによって、神から罪の赦しを得る、ということです。さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです。

問71 わたしたちが洗礼の水によるのと同じく、この方の血と霊とによって確実に洗っていただけるということを、キリストはどこで約束なさいましたか。

答 洗礼の制定の箇所に、次のように記されています。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」、(「信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける」。)この約束は、聖書が洗礼を「新たに造りかえる洗い」とか「罪の洗い清め」と呼んでいる箇所でも繰り返されています。


1.目に見えない聖霊の御業をあらわす聖礼典

①罪の赦しが必要な罪人

 刑務所を脱走した間抜けな三人組の逃亡生活を描いた古いアメリカ映画を昔テレビで見たことがあります。やっとの思いで刑務所を脱走した三人組に刑務所からの追手が迫ります。そこで彼らはその追手たちから逃れるために、たまたまそこにいたたくさんの人たちが並んでいた行列に紛れ込みます。実は、この行列はこれから川で洗礼を受けようとして集まったキリスト教徒の行礼でした。三人組は周りの人々に疑われては大変と、見様見真似でその行列の人たちと同じように洗礼式に参加し、自分たちも牧師から洗礼を受けました。その後のことです。三人組の脱獄犯の中の一人が、大喜びして、こう叫びました。「やった。これで俺たちの罪はすべて赦されたぞ…」。するとその言葉を聞いていた三人組のリーダー的存在の一人が冷静にこう語ります。「そりゃ、お前。神様が俺たちの罪を赦してくださったとしても、この州の法律は俺たちをまだ赦しくれてはいない…」。

 キリスト教や聖書の教えについて誤解してしまう人は「罪の赦し」と聞くと、「自分は法律を破るような罪を犯した犯罪者ではない」と反論します。聖書が教える罪、あるいは罪人とはこの世の法律を犯した犯罪者のことを言っているのではありません。聖書は神に従って生きることのできない人間の姿を「罪」を指摘し、その人間たちを「罪人」と呼んでいるのです。そして聖書はその上で、私たち「罪人」にとって何よりも必要なことはこの神との関係を回復することだと教えます。その神との関係を回復のために自分の罪を赦していただかなければならないと教えるのです。


②聖礼典の役割

 聖書はこの罪の赦しがイエス・キリストの十字架の御業を通して私たちの上に実現したことを教えています。なぜなら、罪人である私たちは自分の力ではその罪を解決することができないからです。そのために神は御子イエス・キリストを私たちのために遣わして、私たちを救ってくださったのです。聖書は今から二千年前に確かにイエス・キリストによってこの救いの御業が実現したことを私たちに教えているのです。

 このイエス・キリストは今も天におられ、御自分が実現された救いを私たち一人一人に与えてくださるために聖霊を遣わしてくださっています。私たちはこの聖霊の御業によって信仰が与えられ、イエス・キリストが実現してくださった救いの御業を実際に自分自身のものとすることができるようになるのです。

 ところでイエス・キリストが天から私たちのために送ってくださる聖霊の御業は残念ながら私たちの肉眼の目では見ることができません。ところが普段私たちは日常生活で目に見えるものを頼りにして生きています。ですから私たちは勘違いしてしまって、聖霊が私たちに与えてくださったイエス・キリストを信じる信仰を頼りのない自分自身の思い付きから出たもと思ってしまうことがあるのです。そしてこの勘違いが、自分自身の信仰生活を不安定なものにしてしまったりするのです。私たちが今、このハイデルベルク信仰問答で学んでいる聖礼典はこの聖霊の御業を目で見ることができ、自分自身の持つ感覚で確かめることができるようにするために神が与えてくださったものです。つまり、信仰を自分自身から出たものと考えて勘違いし、不安になってしまう私たちの信仰を正して、救いの確信を私たちに与えてくれるのがこの聖礼典の役割なのです。だから私たちはこの聖礼典にあずかることで喜びを持って信仰生活を送ることができるようになるのです。

 今日はこの聖礼典の一つである洗礼がどのような益を私たちの信仰生活に与えてくだるのかについてこのハイデルベルク信仰問答の言葉を手掛かりに皆さんと共に少し考えてみたいと思うのです。


2.私たちの罪を洗ってくださる神の御業

①洗礼=罪を洗い清める

 私たちが持っている新共同訳聖書には「洗礼」と言う漢字の横に「せんれい」と言うひらがなではなく「バプテスマ」と言うカタカナの文字が書かれているのを皆さんは知っているでしょうか。このバプテスマはギリシャ語聖書の原語に書かれている言葉をそのまま書いたもので「洗礼」と言う文字のフリガナではありません。なぜ聖書はこんな混乱する書き方をするのでしょうか。

 実はこの原語のバプテスマと言う言葉には「浸す」とか「沈める」と言う意味がありますが、この言葉には「洗う」と言う意味も儀式を示す「礼」と言う意味も含まれていないのです。ですから、この言葉の本来の意味はイエス・キリストがヨルダン川でバプテスマのヨハネから受けた、川の水の中に全身を沈める、その様子を表す言葉だったと考えることができます。しかし、キリスト教がやがて世界に広まって行く中で、教会の指導者たちによって川のないような場所でも洗礼を授けることができるようにと、現在のような頭に水を注ぐような洗礼が行われるようになったのでしょう。そしてこのバプテスマと言う言葉が教会では「洗礼」と言う言葉で言い換えられるようになったのです。ただ、今日の聖書箇所であるテトスの手紙の中では「この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」(6節)と洗礼について語られています。このような聖書の言葉からバプテスマは、「洗礼」と言う言葉の意味のように罪を洗い清め、私たちを新しく造り変えてくださる聖霊の御業を表すものと考えてよいことが分かります。


②イエスの約束の言葉にもとづく洗礼の恵み

 それではこの洗礼を受けることは私たちの信仰生活にどのような益が与えてくれるのでしょうか。そのことについてハイデルベルク信仰問答は「それは日頃体の汚れを落としているその水で、わたしが外的に洗われるのと同じくらい確実である、ということです」(問69)と教えています。特にコロナ禍以後、私たちは外出から帰るとまず洗面所に行って石鹸で手を洗うことが習慣づけられています。もちろん、それ以前から習慣を持っていた人もおられるかも知れません。石鹸で手を洗えば人間の健康を害する恐れがある様々な菌やウイルスを洗い落すことができると私たちは信じているからです。

 聖書が記された時代の二千年前の古代人も水を使えば様々な汚れを落とすことができることを確かに知っていました。ですから洗礼の際に水を使うのは、聖霊の洗い清めがイエスを信じる私たちの人生に確かに実現していることを私たちに確信させるためのものであると信仰問答は教えているのです。しかも、この洗礼は「誰かがこれをすれば信仰に役に立つ」と考え出したような曖昧なものではありません。信仰問答の中で「キリストがこの外的な水の洗いを制定された時」(問69)と語られているように、この洗礼も救い主イエスが私たちに守るようにと与えてくださったものなのです。だから実際に洗礼にあずかる私たちにイエスはその約束の言葉の通りに、罪の赦しの恵みを与えてくださり、私たちを新しく造り変え、神の子どもとしてくださるのです。つまり、この洗礼の恵みを確かなものにするのは、私たちの強い信念と言ったものではなく、御言葉を通して私たちに約束してくださったイエス・キリスト御自身であると言えるのです。


3.洗礼によって与えられる保証

①意味の分からない信仰生活

 このハイデルベルク信仰問答を日本語に翻訳した神学校の吉田隆校長はその解説の中で、ハイデルベルク信仰問答が聖礼典の内容をくどいほど詳しく説明している理由について説明しています。実は宗教改革以前の教会の中では、信徒は自分が洗礼を受けていても、その洗礼の意味を十分に理解して信仰生活を送ると言うことはしていなかったと言うのです。それは洗礼だけに限られることではありません。宗教改革以前のカトリック教会では礼拝は皆ラテン語と言う普段自分たちが使っていないような古代の言葉で行われていました。だから礼拝に出席している人は自分たちが受けている儀式が自分たちにとって何を意味しているかを理解できないまま信仰生活を送っていたのです。

 これは私たちが仏式の葬儀に出席したときを想像するとよくわかるかも知れません。私たちにはそこで唱えられているお経の意味が分かりません。お坊さんがそこで行っている儀式の意味がわからないのです。ただ、遺族たちは亡くなった死者を供養するためには「これをすることが大切だ」と思ってそれをしているに過ぎません。宗教改革以前のカトリック教会ではこれと同じようなことが起こっていたのです。ですから宗教改革者たちは自分の信仰生活の意味をそれぞれが良く理解して行うことができるようにと徹底的に信徒を教育したのです。なぜなら、洗礼にしても聖餐式にしてもその意味をよく知れば、私たちの信仰の確信は強められ、また神への感謝の思いも深められるからです。


②私たちの信仰生活を導く聖霊の働き

 宗教改革以前のカトリック教会では洗礼は自分たちが天国に入るため必要な儀式のようなものと考えられていたのかも知れません。しかし実際に洗礼は、私たちの罪が赦されたことを私たちに確信させるものであり、私たちが神様に感謝をして信仰生活を送ることができるようにするものなのです。さらにハイデルベルク信仰問答の問70では洗礼について「さらに、聖霊によって新しくされ、キリストの一部分として聖別される、ということでもあります。それは、わたしたちが次第次第に罪に死に、いっそう敬虔で潔白な生涯を歩むためなのです」とも説明しています。

 洗礼は聖霊の御業によって私たちの犯した罪が洗い清められ、赦されたことをあらわすだけではなく、私たちが主イエス・キリストのものとなり(問1)、これからの人生をそのイエス・キリストが送ってくださる聖霊が導いてくださることを保証するものでもあると言うのです。

 教会で信者になるために洗礼を受けることを躊躇する人が考える一つの理由は、「洗礼を受けて信仰生活を始めても、それを続けて行く自信がない」と言うことかも知れません。しかし、これは洗礼の意味を誤解したところから生まれた心配かも知れません。もちろん、私たちは洗礼を受ける際に神の前に誓約をして、自分の決心をそこで告白します。しかし、その決心を確かなものにし、また私たちが生涯の最後まで信仰生活を送ることができるようにするのは私自身の決心や力ではありません。それを可能にするのは聖霊なる神の働きです。洗礼式はその聖霊の働きが私たちの信仰生活に確かに実現することを確信させ、私たちを励ますものでもあると信仰問答は教えているのです。


4.私たちを見つけて下さった神の喜び

 キリスト教徒の小説家で椎名麟三という人が書いた「私の聖書物語」と言う本を私がまだ20代の頃に読んだことがありました。この本の中で椎名麟三は教会で洗礼を受けたときの記憶をたどりながら、頭の上に数滴の水かかけられただけで、あとは驚くほど何も変わることがなかったと語っていたことが当時の私の印象に残りました。それは「洗礼というのは、意味の無い儀式なのかな…」と思ってしまうような記述でした。ところが椎名麟三はその後、自分に起こった身近な出来事からイエス・キリストが自分を信じさせるために必死になってくださっている気づいたと言うことを書いています。そこで彼は自分のようにつまらない人間のために、イエス・キリストが必死になってくださっていることを通して、その愛に知り、その愛にとらえられたと語るのです。

 私たちが聖書を読んで分かることはイエス・キリストが、そしてそのイエス・キリストを世に遣わしてくださった神が私たちのような罪人を救うために必死になっていることです。私一人がいなくなったとしても、世界は全く変わることがない、私の存在は無に等しいと私たちは考えているかも知れません。そして、神は私たち罪人に代わって、もっと役に立つ人間を造り出すことがおできになる方でもあるはずです。しかし、その神は私たちのような罪人を救うために必死になってくださって、御子イエスを私たちのために遣わしてくださったのです。

 そのイエス・キリストは私たち罪人ために文字通り十字架で命をささげてくださいました。その上で、イエス・キリストは「後は皆さんにお任せします。さようなら」と私たちを置いて一人で天に昇られた訳ではありません。私たち罪人がイエスの十字架によって救われるために聖霊を遣わしてくださり、私たちを御自身のものとしてくださったのです。そして目に見えるものを頼りにしている私たちが迷うことがないようにと、聖礼典さえ与えてくださったのです。

 私たちのような罪人である小さな存在のために神がどれだけ必死になって働いてくださっているのかを聖書は私たちに教えているのです。イエスの教えた放蕩息子のたとえではいなくなってしまった息子を毎日必死で待ち続けた父親の姿が記されています(ルカ15章11~32節)。神はこの父親のように私たちを愛してくださっているとイエスは教えてくださったのです。ただ、このたとえ話の父親と神が違う点は、神はいなくなった私たちをイエス・キリストを通して捜し出そうとされたことです。放蕩息子の父親は息子の帰還を喜んで宴会を開いて祝おうとしました。洗礼式はこのたとえ話の父親と同じように、神がいなくなった私たちを見つけ出したことを喜んでくださる宴会のようなものです。ですから洗礼はこのように神の救いにあずかることができた私たちの喜びを表すものであると同時、私たちを見つけ出した神の喜びを表すものであることを私たちは最後に覚えたいと思います。


2025.7.13「洗礼について」