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2025.6.15「礼典が示すものとは」

ローマの信徒への手紙6章3~4節(新P.280)

3 それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。

4 わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問67 それでは、御言葉と礼典というこれら二つのことは、わたしたちの救いの唯一の土台である十字架上のイエス・キリストの犠牲へと、わたしたちの信仰を向けるためにあるのですか。

答 そのとおりです。なぜなら、聖霊が福音において教え聖礼典を通して確証しておられることは、わたしたちのために十字架上でなされたキリストの唯一の犠牲に、わたしたちの救い全体がかかっている、ということだからです。

問68 新約において、キリストはいくつの礼典を制定なさいましたか。

答 二つです。聖なる洗礼と聖晩餐です。


1.確かな救いはどこから来るのか

 子どものころ芥川龍之介が児童向けに書いた「蜘蛛の糸」と言うお話を絵本か何かで読んだ記憶があります。主人公はこの世でなした悪行の報いを受けて、地獄に落とされ、そこで苦しんでいます。その光景を極楽浄土から見ていたお釈迦様が、その主人公の姿を憐れに思い、彼の前に極楽から蜘蛛の糸を降ろして、彼を地獄の苦しみから救い出そうとするお話です。実は主人公は生前に小さな蜘蛛の命を助けたことがあり、お釈迦様はその善行を理由に助けの糸を彼に差し出したのです。この後、主人公は自分の前に降ろされた蜘蛛の糸につかまって地獄からの脱出を試みます。しかし、はるか下を見ると自分がつかまっている蜘蛛の糸に何人もの人がつかまり、よじ登って来るのが見えました。彼らも主人公と同じように地獄からの脱出を試みようとするのです。このままでは人々の重さに耐えかねて蜘蛛の糸が切れてしまうかもしれな…。それを恐れた主人公は、下から昇って来る人々に向って「この蜘蛛の糸は俺だけのものだ。お前たちはすぐ降りろ」と叫びます。すると途端にその蜘蛛の糸がぷっつりと切れて主人公はまた元の地獄に落ちて行くと言うお話です。

 子どもの頃にこのお話を聞いて、せっかくの救われるチャンスを得ながら、それを失ってしまった主人公が愚かだと思いました。しかし、大人になって改めてこのお話を考えてみると、この主人公の姿は「誰よりも自分だけは助かりたい」と考える人間の本性を表すものに思えてなりません。

 いずれにもしても、もし私たちを救うものがこの蜘蛛の糸のように簡単に切れてしまうような頼りにならないものだとしたら、私たちはどうしたらよいのでしょうか。また、「もし問題なのは蜘蛛の糸の方ではなく、他人に対する思いやりを持てない人間の側の心だ」と言われるなら、これもまた深刻なことだと言えるのではないでしょうか。私たちは自分の生き方を簡単には変えることができないからです。

 聖書が教えている救いが確かであると言えるのは、その救いが私たちの側から出るものではなく、私たち救おうとされる神の側から与えられるものだからです。私たちはこれまでこのハイデルベルク信仰問答を通してそのことについて学んで来ました(問65)。

 この芥川の小説に登場するお釈迦様は主人公のために蜘蛛の糸を降ろすだけで、主人公が元いた地獄に落ちて行く姿を見て悲しい顔をするほかありませんでした。しかし、聖書を通して明らかにされる私たちの全能の神の姿はそのような方ではありません。神は私たちを救い出すためにこの地上にご自身のひとり子であるイエス・キリストを遣わして下さったのです。そして私たちの罪をこの御子にすべて負わせた上で、その御子の命を十字架でささげてくださいました。聖書はイエス・キリストを通して実現したこの神の救いの御業は完全なものであって、何者もこの確かな救いを揺るがすことができないことを私たちに教えています。ですから、この救い主を信じる者はすべて神から完全な救いを受けることができるです。


2.信仰は聖霊の賜物

①頼りにならない信仰?

 このように私たちに神が差し出してくださっているイエス・キリストによる救いは完璧であるわけですからそこに私たちが不安を感じる必要は全くありません。しかし、そう考える私たちに次に問題となるのは「信仰」と言う言葉です。どんなにイエス・キリストの十字架が素晴らしいものであっても、そのイエスを信じなければ、救いは私たちのものになりません。聖書は確かにそう教えています。そしてもし、どんなに私たちに差し出されているイエス・キリストの救いが素晴らしくて、完璧なものであっても、この「信仰」が全く頼りにならない私たち自身の内側から生まれてくるものだとしたら、それは私たちに深刻な不安を与えることになります。先ほどの蜘蛛の糸のお話で言えば、もしこの蜘蛛の糸が絶対に切れることのない未知の化学繊維で作られていたとしても、それをつかまえる人間の側の手の力が十分でなければ、また私たちは元の地獄の世界に戻るしかないからです。

 私が何度も話した思い出話ですが、私は大学生の時に教会に通い、そこで洗礼を受けてクリスチャンになりました。当時、私はそれがうれしくて、たまたま電車で会った高校生時代の友人たちに信仰の証しを語ったのです。ところがそのとき私の話を聞いていた友人たちは、「今度はどのくらい続くのかな…」と笑いながら言うのです。同級生たちは高校での長い付き合いから私が「熱しやすく、冷めやすい」と言う性格を持った人物であること知っていたからです。だから「教会などすぐに飽きて、また違うことをするはずだ…」と彼らは考えたのです。


②私たちの霊的な生活の中心である礼拝

 私たちの心の状態は日々、変わって行きます。病になったり、大きな失敗を犯せばすぐにその心も弱くなってしまいます。もしそのような私たち自身の心から信仰が生まれてくると考えるとしたら、これほど頼りにならないものはないと言えるのです。しかし、聖書は私たちの信仰は、私たち自身から出るものではなく、神から与えられたプレゼント、賜物だと教えています。ですから信仰は不完全な人間の心から生まれるものではなく、完全な神が私たちの心に与えてくださるものだと言えるのです。そして、このとき私たちに信仰を与え、またそれを育み、守り続けてくださる方が聖霊なる神であると言うのです。

 私たちは何やら「霊」などと言う言葉を聞くと、目に見えない得体の知れない存在のように考えがちです。しかし聖霊はそのような方ではありません。なぜなら、聖霊は私たちにもわかる形で働きかけてくださる方だからです。信仰問答はその働き方について「聖なる福音の説教」と「聖礼典の執行」を通して行われると教えています(問65)。いずれも教会が日曜日の礼拝の中で行っているものです。教会の礼拝では毎週、牧師が聖書の言葉から、イエス・キリストによって実現した福音を伝えています。また新しい信仰者が与えられれば、この礼拝の中で洗礼式を行います。そして、私たちの教会では毎月第一日曜日の礼拝で聖餐式を行っています。つまり、私たちがこのようなことが行われる教会の礼拝に集うと言うことは、この聖霊の業を受けるためだと言うことができるのです。

 信仰は私たちが何もしていないところで、ある日、突然に与えられるものではありません。教会の礼拝に出席して、そこで聖書のお話を聞くときに、私たちの心に聖霊が働いてくださり、私たちが神を信じる者にしてくださるのです。これは教会で行われている聖礼典と呼ばれる洗礼と聖餐式も同じです。聖霊はこの聖礼典に私たちが与ることで、私たちの心に働きかけて、私たちの信仰を確かなものとしてくださるのです。

 日本人はよく「修行」と呼んで自分の信仰心を養うために、特別な場所に行って、特別な訓練を受けることが大切だと考える傾向があります。しかし、キリスト教で大切なのは人から離れて、一人山に登り激しい修行を積むことではありません。毎週の日曜日に教会に出席して、そこで信仰の兄弟姉妹たちと共に礼拝に参加することが、私たちが聖霊の働きかけを豊かに受けるために必要な「霊的な生活」であると言えるのです。


3.私たちの心をキリストの贖いに向ける聖霊

 今日のハイデルベルク信仰問答の問67では、聖霊が御言葉と礼典を通して働かれるとき、私たちの信仰のために何をしているのかと言う問答が教えられています。こう問答が繰り返し語るのは、この時代のカトリック教会が犯していた様々な誤りを正す意味があると思われます。なぜなら、当時のカトリック教会では聖書に根拠がないばかりか、むしろ聖書の教えに反するような信心業が数多く作られていて、その信心業に信徒が励むようにと教えられていたからです。現在でもこれは変わらないないのですが、カトリック教会では聖礼典を「秘跡」と呼んで、この秘跡の数が七つあると教えています。またその他にも中世のカトリック教会では迷信のような教えが数多く存在していたのです。

 以前にもお話したことがあるかも知れません。私が子どものときに学校で遠足などの行事があると、私のリックサックは母が前の晩に入れた様々な荷物のためにいっぱいになりました。母は心配性の傾向があって、「息子が遠足先で困ってはいけない」といろいろなものをリックに詰め込むのです。結局、その荷物の大半はほとんど使われないまま私は重い荷物を背負って家に帰って来ることになりました。今でも私が外出するときに、自分のかばんにいろいろなものを入れるのはこの母の性格をそのまま受け継いでいるからかも知れません。

 カトリック教会が様々な信心業を作り出したのは、ある意味でイエス・キリストの十字架の御業だけでは心もとないと考えたからなのかも知れません。また自分たちの信仰を守られる聖霊の業だけではやはり不安だと考えたのかも知れません。ですから、宗教改革者たちは聖書の教えに基づかないものは信仰にとって全く必要ないばかりか、イエス・キリストの救いの完全性を損なうものとして厳しく批判したのです。そして宗教改革者たちは私たちの信仰には御言葉と二つ礼典(洗礼と聖餐)だけで十分だと教えたのです。

 なぜなら、御言葉も聖礼典も私たちの救いの確かな根拠であるイエス・キリストの十字架を指し示すものだからです。つまり、御言葉や聖礼典は私たちの救いのために必要なプラスアルファのような補助手段ではなく、私たちの救いの確かな根拠であり、完璧な救いを私たちに提供するイエス・キリストに私たちをいつも導くためのものでしかないのです。


4.イエスに助け出されたペトロ

 イエスの生涯を伝える福音書の中には、あるときイエスがガリラヤ湖の水の上を歩かれたと言う不思議な奇跡の物語が収められています(マタイ14章22~33節)。このとき弟子たちはイエスと別れてガリラヤ湖の上に浮かんだ舟の中にいました。ちょうど世が明けた頃に、弟子たちはガリラヤ湖の水の上を歩いてこちらに近づいて来る人影に気づきます。そして、この光景に驚いた弟子たちは「幽霊だ」と叫び出して、パニック状態のようになるのです。すると湖上を歩く人影から「安心しなさい。私だ。恐れることはない」と言う声が語られ、その言葉を聞いた弟子たちはその人物がイエスであることに初めて気づくのです。

 お話はここから次の展開に移ります。弟子たちはガリラヤ湖の水の上を歩いて自分たちのところに近づいて来られる方が「イエスだ」と気づいたとき、その弟子たちの一人であるペトロが「自分も水の上を歩けるようにしてほしい」とイエスに願い出たのです。そこでイエスの「来なさい」と言う言葉に促されて、ペトロが湖の水の上に足を降ろすと、彼も見事にイエスと同じように湖の上を歩くことができたのです。しかし、それもつかの間のことに過ぎませんでした。聖書はこう報告しています。

「しかし、(ペトロは)強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ」(マタイ14章30節)。

 ペトロは今までイエスだけを見つめて、イエスの方に歩んでいるときには無事に水の上を歩くことができました。ところが強い風の音に気をとられて、イエスから目をそらしてしまった瞬間、彼の心は恐怖にとらえられて水の中へと沈んで行ってしまうのです。先ほどの芥川のお話なら、ここでイエスは寂しい顔をして「ペトロの信仰が足りなかった」と言って立ち去って行くと言うことになるかも知れません。しかし、聖書はそのような結末を私たちに伝えてはいません。

「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。」(14章31~32節)

 ここに私たちのために聖霊を送って私たちの信仰を助けてくださる主イエスの姿がよく表わされていると言えます。私たちもこのペトロのように、目の前に確かなイエス・キリストの十字架と言う救いの根拠を示されていながら、日常の生活で起こる様々な出来事に心を奪われて、そのたびに信仰の確信を失いかける者たちだからです。しかし、私たちの主イエスはそのような私たちを「信仰の薄い者よ」と語り、「それはあなた自身の責任だ」と投げ出すような方では決してありません。むしろ疑いの水の底に沈んで行く私たちの手をすぐにつかんで、私たちを助け出してくださる方なのです。

 私たちはこのイエスの御業を礼拝のたびに、聖なる福音の説教や聖礼典の執行を通して体験することができるのです。このように私たちの信仰は、私たちにイエスが遣わしてくださる聖霊の働きによって確かなものとされるのです。

 そしてこのことから私たちが分かることは信仰生活が長い者もまた短い者も、イエスの遣わしてくださる聖霊の力によって日々導かれて、今この礼拝に集っていると言うことです。信仰生活が長いからと言って、またその信仰生活に人一倍熱心だからと言って誰も自分を誇ることはできません。すべては神の御業の結果だからです。だから私たちは今日もこの礼拝で御言葉を聞くことで、聖霊の働きを受け、私たちの救いの唯一の根拠であるイエス・キリストに私たちの心を向け、その方に感謝をささげることができるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問67と68を読んでみましょう。

2.信仰問答は「御言葉と礼典」が私たちの信仰を何に向けるためにあると教えていますか。

3.私たちは聖霊が私たちの信仰を育み守るために、どこで聖なる福音の説教と聖礼典の執行を受けることができますか。

4.キリストの唯一の犠牲に、「わたしたちの救いの全体がかかっている」としたら、御言葉と聖礼典以外の他の何かが私たちの信仰生活に必要だと教えることは、正しいと言えますか。

5.あなたもここまで自分の信仰生活を導いてくださった神の御業のすばらしさに感謝をささげ、これからも聖霊の働きを受けて祝福された信仰生活を送ることができるように神に祈りをささげましょう。

2025.6.15「礼典が示すものとは」