2025.4.6「わたしもあなたを罪に定めない」 YouTube
聖書箇所:ヨハネによる福音書8章1~11節(新P.180)
1 イエスはオリーブ山へ行かれた。
2 朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
3 そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、
4 イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。
5 こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」
8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
9 これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
10 イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
11 女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」
1.受難節の意味と過ごし方
今朝は受難節の第五週目の礼拝となります。教会のカレンダーではいよいよ次週が主イエス・キリストの十字架の出来事を記念する受難週となっています。ご存知のようにイエス・キリストがエルサレムのゴルゴダの丘で十字架につけられ殺されたのは今から2000年ほど前に起こった出来事です。これはこの世の学者たちも同意する歴史的な事実であると言えます。しかし、私たちが主イエスの十字架の出来事を思い起こすときに大切なことは、そのような過去の歴史的事実を認めるということではありません。むしろ私たちにとって大切なのは、この十字架の出来事が今を生きる私たちの人生に深いかかわりを持っていることを認めることだと言えるのです。そして私たちはそのような意味からも今日の聖書箇所が教えている主イエス・キリストに関する物語に耳を傾けて行きたいと思うのです。
私はちょうど20歳ごろに聖書やキリスト教に関心を持ち始めました。現在もそうですが私はもともと、外に出ることが好きではない性格だったので、私はあるキリスト教会が行っていた通信教育を受けて、聖書を勉強することになりました。実は私が受けた通信教育は少し変わっていました。まず私が教会から送られて来たテキストを読んで、そのテキストに関する設問が記された答案に答えを書いて郵送します。ここまでは普通の通信教育とほとんど変わりがないと言えます。大きく違うのはこの後に通信教育の担当者が私の答案を採点して、それを郵送するのではなく、直接私の家に持って来るというところです。そこで担当者が私の書いた答案に対してあれこれとアドバイスをしてくれるのです。それはその担当者が通っている茨城の教会と東京にある自宅の間にちょうど私の家があったからと言う理由もありました。とにかく当時の私は普通の通信教育では考えられないほどとても丁寧な指導を受けることになったのです。
今でも覚えているのはその通信教育の設問に「イエス・キリストは誰のために、また何のために十字架で死なれたのか」と言うものがありました。そしてその時に私は送られて来たテキストを読んでそのまま「私たちの罪のためにイエス・キリストは十字架につけられ死んでくださった」と言う答えを書いたのです。ところがこの後に私の元に戻って来た答案にはどうしてなのか不正解のバツがついていたのです。そしてその答案を私の家まで持って来てくれた担当者は「ここは「わたしたち」ではなく、君が「わたしのために」と言えない限り、この答案にはマルを与えることはできない」と言うのです。
この後、私はこの同じ教会で行われていたルターの小教理問答書を学ぶ通信教育に進み、聖書が教える十戒を詳しく学ぶことになり、自分が神の御心に背いて生きている罪人であること知ることになりました。そして、私は「ああ、本当にイエス様は罪人である私のために十字架にかかってくださったのだ」と告白することができるようになったのです。
私たちが十字架にかけられたイエス・キリストから豊かな恵みをいただくためには、まず、私たち自身が神の赦しを必要としている「罪人」であることを認める必要があります。そしてもし、私たちがその事実を認めることができるなら、主イエスの十字架の死とそしてその三日後に起こった復活の出来事が私たちの人生を全く新たに変える素晴らしい出来事となるのです。
2.イエスを陥れようとする策略
①姦通の現場で捕らえられた女
今日の聖書箇所には「姦通の現場で捕らえられた女」という人物が登場しています。ここで言われている「姦通罪」は男性が他人の妻と関係を結ぶことで成立するものです。ただし既婚の男性が自分の妻以外でも関係を結んだ相手が未婚の女性である場合にはこの姦通罪は成立しません。ですから、どちらかというと姦通罪は他人のものを盗んではならないと言う律法を犯す罪として厳しく罰せられるべきものであったようです。古代イスラエルでは姦通罪を含めて広く「姦淫」の罪を犯した者には極刑である「石で撃ち殺す」と言う刑罰が下されることになっていました。そのような意味でここに登場する女性は死刑の判決を待つような絶対絶命のピンチに立たされていたと言えるのです。
ただ、この物語にはこの事件についていくつかの不自然な要素が残されています。なぜなら、ここで姦通の罪が問題とされているならば、姦通は一組の男女の間で行われる罪ですから、必ずこの女性の相手である男性もいなければならないのです。ところがこの物語の中にはその男性の存在は影も形もありません。また、ある説教者が指摘しているのは、古代イスラエルではこのような裁きの場合には必ず二人の証人の証言が求められることになります。ですからもし、都合よくこの二人の証人が存在して、姦通の相手の男性だけの姿が見えないとすれば、これは最初からこの女性を陥れるため仕組まれた罠であったとも考えることができるのです。この物語を読むと理解できるのは、この女性の存在はむしろ主イエスを追い詰めるために律法学者たちやファリサイ派の人々に利用されていると言うことです。つまり、彼らの関心はこの女性を「石で撃ち殺す」ことと言うよりは、むしろイエスを罠にかけて陥れるというところに向けられているのです。
②イエスを罠に陥れようとする人々
たとえば、聖書の中でイエスの十字架刑で問題とされているのは、当時のユダヤ人からは「人を死刑にする」という司法権が奪われていて、その権限はローマ帝国に帰属していたことです。つまり、イエスがここでこの女性を「石で撃ち殺せ」と命じれば、このローマの司法権を犯す違反者として訴えられる可能性があるのです。また、イエスがもし「この女を赦してあげなさい」と言えば、律法学者やファリサイ派の人々は「イエスが旧約聖書の掟を蔑ろにしている」と非難できる材料をつかむことになります。そう考えるとここに登場する女性は姦通の罪を問われている犯罪者というよりは、イエスを陥れるために利用されてしまった犠牲者であったとも考えることができるのです。
前回、私たちが学んだ放蕩息子のたとえのお話では最初に、律法学者たちやファリサイ派の人々が「イエスが罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」ということが問題となり、その疑問に答えるためにイエスがこのたとえ話を語られたと言うことを学びました。律法学者やファリサイ派と呼ばれる人々はイエスが「罪人」と呼ばれる人たちと仲良くすることがとても我慢できなかったのです。それはまず彼らが、「自分たちは罪人ではない」と考えていたところに原因があります。なぜなら、彼らは「自分たちはそのために日々、神の律法を厳格に守っている特別に優れた者たち」と考えていたからです。その上で、もしイエスが神から遣わされた者であるならあのような罪人たちではなく、神に選ばれている自分たちと親しくすべきであり、自分たちのために働くべきだと考えていたからです。ところが、イエスはこの律法学者やファリサイ派の人々の期待を見事に裏切り、むしろ彼らが「偽善的な信仰生活を送っている」と厳しく批判したのです。
イエスは他の箇所で「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」(マルコ2章17節)とはっきりと語られています。つまり、「自分は罪人ではない」と考える律法学者やファリサイ派の人々はイエスが自分たちを招いているとは決して思うことできなかったのです。
3.罪のないものから石を投げなさい
姦通罪を犯したこの女性の罪をどのように取り扱うべきなのか…。イエスにその答えを迫る律法学者やファリサイ派の人々に対して、ここで不思議な行動を取られています。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」(6節)。「このときイエスは地面に何を書かれていたのか」と言うことについては様々な人によって、様々な解釈が施されています。しかし、そのいずれの解釈も推測の域を出ない点では同じであると言えます。私もここで個人的な推測を語るとすれば、このように相手から厳しく答えを問われた場合、私たちはつい感情的になってしまって余計なことを語ってしまって、さらに問題を深刻にしてしまう恐れがあります。ですからことが深刻な問題であればあるほど、私たちは慌てることなく、冷静に考える時間を持つ必要があるのです。イエスにもその冷静さが求められていたのかは分かりませんが、ここでの会話の主導権をイエスが握るためにもこの沈黙の時間は大切であったと言えるかも知れません。イエスに対して執拗に問い続ける律法学者やファリサイ派の人々に対して沈黙していたイエスは次の瞬間、身を起こして次のように語られます。
「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」(7節)。
さきほど、お話したルターの小教理問答書の通信教育の学びで私の印象に残ったのは「生まれつきの人間は自分が罪人であるということを認めることも、悟こともできない」と言う言葉でした。つまり、人間は誰も自分の力では「自分が神に裁かれるべき罪人だ」とは気づくことができないのです。だからもし、私たちが「自分は罪人であり、その私の罪のためにイエス・キリストが十字架につけられた」と信じることができるなら、それはもうその人にイエスが聖霊を遣わして、そのことを教えてくださった結果だと言えるのです。つまり、私たちがもし「自分を罪人だ」と認めることができるなら、もうすでに私たちの上に主イエスの救いの御手が働いていると言うことにもなるのです。それではこのときにイエスの言葉を聞いた人々はどのようになったでしょうか。
「これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(9節)。
この時に語れたイエスの言葉を聞くと、今まで女性の罪を追求していた人々の態度は急に変わってしまいます。それはこのイエスの言葉によって「自分も神の御前では罪を犯している罪人にすぎない」と言う事実を彼らが認めたからです。そのような意味で、「自分たちはこの女性を裁く立場にない」と言うことを彼らは理解したのです。
ここでの「年長者から始まって」という言葉はとても印象的です。年長者は理想に燃える若者とは違い、人生の厳しい現実を数多く体験しています。そして人生は理想通りに生きることのできないと言う自分の弱さを痛感しています。だからこのときに真っ先に年長者がこの事実に気づくことになったのかも知れません。
ところがここで問題なのは、彼らが一人、また一人とイエスの前から立ち去ってしまったことです。もしかしたら、彼らはイエスの言葉を聞いて恥ずかしい自分の姿に気づき、その場を立ち去ろうとしたのかも知れません。しかし、自分の罪を知った人が取るべき態度はイエスの前から立ち去ることでも、身を隠すことでもありません。なぜなら、その罪を解決することのできる方は救い主イエス・キリスト以外にはおられないからです。だから自分の罪を知らされた者はこのイエス・キリストの元にとどまり続ける必要があるのです。
4.わたしもあなたを罪に定めない
この物語の中でイエス・キリストのもとにとどまり続け、そのイエスから真の罪の赦しを受けることができたのは、ここで絶体絶命のピンチに立たされていた女性一人だけでした。ここからイエスと彼女との会話が始まっています。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(10~11節)。
私たちはよく深刻な悩みを持っている人に「そんなに深刻に考えない方がよいよ…」とアドバイスすることがあります。しかし、これはある意味で無意味なアドバイスとなるかも知れません。なぜなら、悩んでいる人は自分でも「悩まない方がよい」と考えているのです。しかし、彼らはそれを知りながら、悩むことを止めらないことに苦しんでいるのです。ですからこれでは相手の問題を解決したことには決してなりませんし、なお一層その相手の苦しみを深刻にしてしまうことになるのです。
「わたしもあなたを罪に定めない」と言うイエスの言葉は、彼女の罪の問題を曖昧にしたり、「そんなに深刻に考えない方がよい」と言っているのではありません。むしろイエスのこの言葉は「もうそのことを考える必要はない」と彼女に語っていると言えるのです。それはどうしてでしょうか…。それはこの言葉を語るイエス・キリストだけがこの女性の罪を完全に赦すことができるお方だからです。なぜなら、イエスはこの女性の罪をすべて背負って十字架にかかってくださる方でもあるからです。
この言葉に続いてイエスは彼女に「行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語られています。これは「今度は大目に見たが、次は赦さないよ…」と言う言葉ではありません。また、「これから罪を犯し続けるのかどうかはあなたの心得次第だ」と彼女を冷たく突き放しているような言葉でもありません。なぜなら、私たちのために十字架にかかって死んでくださった主イエス・キリストは私たちの罪を赦すだけではく、私たちと共に生きて、私たちの人生に責任を持ってくださる方だからです。そしてイエスは、そのために三日目に死から復活して今も生きておられるのです。
この受難節に私たちの元にも主イエスから神の国への招待状が届けられています。ただ、その招待状の宛名には「罪人」と言う見慣れない名前が書かれています。こんな手紙を受け取ったあなたはどうお考えになるでしょうか。「これは私の元に届いた手紙ではない」と考えて、送り返してしまうのでしょうか。それとも、「罪人」と言う名前こそ自分の本当の名前だと認めてその招待状を受け取るのでしょうか。もしその名前の通り自分が罪人であることを認めて、その招待状を受け取るなら、私たちの信仰生活はイエスの十字架と復活の恵みで祝福されることを私たちは今日の聖書の物語からも知ることができるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このとき律法学者やファリサイ派の人々によってイエスの元にどのような人が連れて来られました(3節)。
2.律法学者やファリサイ派の人々はイエスにどのような質問をしましたか。彼らがそのようにイエスに問うた理由な何でしたか(3~6節)。
3.このように問う人々にイエスは何とお語りになりましたか(7節)。そしてこのイエスの言葉を聞いた人々はどのようになりましたか(8節)。
4.イエスは姦通の現場で捕らえられた女性にどのような言葉をかけられていますか(11節)。この言葉はこれからのこの女性の人生にどのような意味を持つものとなったと思いますか。