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2025.4.13「礼典とは何か」 YouTube

聖書箇所:使徒言行録2章38~42節(新P.216)

38 すると、ペトロは彼らに言った。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。

39 この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです。」

40 ペトロは、このほかにもいろいろ話をして、力強く証しをし、「邪悪なこの時代から救われなさい」と勧めていた。

41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。


ハイデルベルク信仰問答書

問66 礼典とは何ですか。

答 それは、神によって制定された、目に見える聖なるしるしまた封印であって、神は、その執行を通して、福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ、封印なさるのです。その約束とは、十字架上で成就されたキリストの唯一の犠牲のゆえに、神が、恵みによって、罪の赦しと永遠の命とをわたしたちに注いでくださる、ということです。


1.主の殉難と弟子たち

 今週は主イエス・キリストの十字架上での苦しみと死を記念し、その出来事を思い起こす受難週に入ります。教会のカレンダーでは今日の日曜日には「棕櫚の主日」と言う呼び名が付けられています。この日はエルサレムの町にロバの子に乗って入城されるイエスを群衆たちが枝や葉を道に敷き詰めて歓迎したことを記念します。また、今週の木曜日には「洗足の日」と言う呼び名が付けられています。この日は主イエスが弟子たちと共に最後の晩餐を過ごされ、その同じ席で弟子たちの足を洗ってくださったことを記念します。そしてその翌日の金曜日が、主イエスが十字架にかけられ、死なれたことを記念する「聖金曜日(受難の日)」となっています。そしてこの受難週を送る私たちにはこれらの主イエスの出来事を思い起こしながらこの一週間を過ごすことが求められているのです。

 ところで、主イエスの十字架の出来事を前にして、ここまで主イエスと共に歩んで来た弟子たちは、これからすぐに主イエスが十字架にかかって死なれることなど予想もしていなかったことが分かります。福音書では主イエスが度々、この十字架の出来事を弟子たちに予め伝えシーンが描かれています。ところが弟子たちはその主イエスの言葉を全く理解できないばかりか、その言葉に関心さえ示そうとはしませんでした。おそらく、彼らの関心は主イエスの十字架の出来事とは全く別のところに向けられていたからかも知れません。

 また、さたに福音書を読んで行って分かることは弟子たちが主イエスのことを理解することができなかったばかりではなく、これから自分たちがどうなるのかと言う、その自分たちのことさえ十分に理解できていなかったと言うことです。たとえば、主イエスが病気で死んだラザロの家に向おうとしたとき、弟子のひとりでトマスと言う人物は「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(ヨハネ11章16節)と言う勇敢な決意を表しています。当時、このラザロの家はエルサレムの郊外にありました。そしてそのエルサレムの町にはこのとき既にイエスの命を狙っている者たちがたくさん存在していたのです。だからトマスは主イエスが「エルサレムに行く」と分かったとき、自分の命を捨ててでも主イエスに従う覚悟が出来ていると語ったのです。

 さらに有名なのは弟子のペトロの語った言葉です。主イエスはご自分がやがて逮捕され十字架にかけられることを知った上で、弟子のペトロが自分を否定して、逃げ出してしまうことを事前に彼に告げています。そのときペトロは「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26章35節)と即座にイエスに答えたのです。ペトロもまた、「自分も主イエスと共に死ぬ覚悟ができている」と強く言い張ったのです。

しかし、皆さんもご存知のように殉教の死を覚悟したトマスも、またイエスと「一緒に死ぬ」とまで断言したペトロも他の弟子たちと一緒に主イエスが逮捕されたときに真っ先に逃げてしまいました。またペトロはその後、イエスの語られた言葉通りに大祭司の庭でイエスを三度に渡って知らないと否定する失態を犯してしまうのです(マタイ26章69~75節)。

 これらの出来事から分かるのは弟子たちが自分の弱さを全く自覚していなかったと言うことです。そしてそれとは反対に主イエスはその弟子たちの弱さを十分に理解しておられたと言うことです。そして主イエスは弟子たちの弱さをよく知っておられただけではありませんでした。主イエスはその弱さを持つ弟子たちを最もふさわしい形で助けを与えてくださったのです。

 たとえば自分の覚悟とは裏腹に主イエスを置き去りにしてしまったと言う挫折感に苛まれていたトマスには、イエスは復活されたご自分の姿を表され、トマスを励ましてくださいました(ヨハネ20章24~29節)。また、主イエスを三度も否定してしまったことを悔やみ、取り返しのつかない失敗をしてしまったと考えるペトロは、ガリラヤ湖に戻って、元の漁師の生活に戻ろうとしました。そのときも復活された主イエスはガリラヤ湖にいるペトロたちを訪れてくださり、そのペトロに三度に渡って「わたしを愛するか」と言う質問をされることで、ペトロの傷ついた心を癒やしてくださり、彼が再び弟子として生きることができるようにしてくださったのです(ヨハネ21章1~19節)。

 これらの物語を読むと、私たちの主イエスが誰よりも私たちの弱さを知ってくださり、その私たちを完璧な形でケアーすることができるお方であることが分かります。そもそも主イエスが十字架にかけられて死なれたのも罪人である私たちをその罪から救い出して、完璧に私たちをケアーして、生かすためでもあったと言うことができるのです。


2.聖礼典の起源と役割

①神が定めてくださった聖礼典

 さて、今日のこの伝道礼拝で、私たちはいつもの通りハイデルベルク信仰問答の言葉から聖書の教えについて学ぼうとしています。そして今日はこの信仰問答の問66を取り扱います。ここでは聖礼典、つまり教会が礼拝の中で執行している洗礼式と聖餐式が何をあらわし、何のために行なわれているのかを説明しています。

 まず、信仰問答は聖礼典が「神によって制定された」と語っています。ご存知のように洗礼式も聖餐式も主イエスの指示に従った弟子たちが行ってきたものです。そしてキリスト教会の2000年の歴史の中でずっと守り続けて来たものです。ですから聖礼典は教会の誰か特定の人物や会議によって「これをした方が教会のためになる」と考えられて、始まったものではないのです。つまり、この信仰問答が語っているように聖礼典は神が私たちのために定めてくださったものだと言えるのです。さきほどの主イエスの受難の物語にもよく示されているよう、神は私たちのことを一番よく知っておられます。また、神は私たちに何が必要であるかも熟知しておられるのです。つまり聖礼典がその神が定めてくださったものであると言うことは、私たちが生きるために、信仰者として人生を歩むためにこの聖礼典が必要であることを表しているのです。ですから、私たちがこの聖礼典について学ぶということは、私たちが自分の弱さを悟り、その私たちにどんな助けが必要なのかを知ることにもなると言えるのです。


②目で見ることができる「しるし」

 その上で信仰問答は次のように私たちに語っています。この聖礼典は「目に見える聖なるしるし」であると…。ヘブライ人への手紙の中には「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(11章1節)と言う有名な信仰についての定義が記されています。この言葉が教えているように確かに私たちが信じる神を私たちは肉眼の目で見ることはできません。また、私たちを救ってくださるという神の約束も私たちの目には見えないのです。ですから信仰とはこの目に見えないものを目に見えるもの以上に、確かで頼れるべきものであることを私たちが認めることでもあると言えるのです。もちろん、これは私たち自身の力でできることではありません。主イエスが遣わしてくださる聖霊の力によって、私たちにこのような信仰が与えられるのです。

 しかし、私たちの弱さをご存知の神は私たちの肉眼の目でも見えるもので、御自身について、そしてまたその約束について私たちに教えてくださると言うのです。だから信仰問答はこの目に見えるしるしである聖礼典について「(この)執行を通して、(神が)福音の約束をよりよくわたしたちに理解させ」てくださると説明しています。

 以前にもお話したことがありますが、私が小さかった頃、三輪車に乗って家から少し離れた場所によく出かけることがありました。そのとき親には何も言わないで出かけてしまうのに、両親は私の居場所をすぐに見つけ出すことができました。その理由は私が自分の通る道すがらの地面に「りょういち→」と言うしるしを書いて行ったからです。両親は道に記されたそのしるしをたどれば必ず私のいる場所を見つけることができました。聖礼典は私たちの信仰生活の上に神が書き記してくださるしるしであると言えます。だからこの聖礼典にあずかる者は、必ず神の約束の通りに信仰の目的地にたどり着くことができるのです。


➂救いの確かさを示す「封印=印章」

 さらに信仰問答はこの聖礼典について「封印」と言う言葉を使って私たちに説明しています。あまり手紙を送らないせいか私は「封印」という言葉を聞いてもあまりピンときません。これは封筒が受け取る人以外の手で開かれていないこと、中身を見られてはいないことを証明するために付けられるものです。おそらくこのハイデルベルク信仰問答が書かれた時代の人にとっては身近な存在であったのかも知れません。以前の竹森訳という別の日本語訳のハイデルベルク信仰問答ではこの「封印」と言う言葉が「印章」と言う言葉で訳されています。私たち日本人にはこちらの方が身近でその意味が分かり易いかもしれません。契約書などを作るとき、そこに書かれた内容が確かであることを証明するために当事者たちがサインをして印鑑を押すことが今でもよくあるからです。

 これは神の救いの出来事が確かに私たちの人生に実現することを確認させるものです。聖礼典はそれを私たちの目に見える形で確認するために与えられたものなのです。

 このハイデルベルク信仰問答と同じように改革派教会の信仰を伝える大切な文書にウエストミンスター大教理問答という書物があります。その大教理の問81にはこんな文章が記されています。

「問81 すべての真の信者は、いつでも、彼らが現に恵みの状態にあり、救われていることを確信しているか。

答 恵みと救いの確信は、信仰の本質ではないので、真の信者もそれをえるまでには、長い間かかるかもしれない。また、それを与えられてからも、種々の病的不安や罪や誘惑や一時的な遺棄によって、弱められ、とぎれたりすることもあろうが、神のみたまの臨在と支えなしに捨ておかれることはないので、全き絶望に沈むことから守られる。」

 この文章に教えているのは、この世では様々な弱さを持った私たちは、一時的に信仰の確信を失うということがありえると言うことです。しかしそれでも信仰の本質であるイエス・キリストによって救われたと言う事実は少しも変わることがないのです。だからそのような弱さを持った私たちを聖霊が守り導いてくださるということを教えているのです。

 聖礼典はこのように信仰の確信を失いやすい私たちのことをよく知っておられる神が、私たちが様々な試練の中でも信仰の確信を取り戻すことができるようにと与えてくださるものなのです。そしてこの聖礼典にあずかる者には聖霊が働いて、実際にその信仰を守ってくださるのです。


3.聖礼典は誰のためのものか

 私がまだ青年時代に教会の礼拝に通っていたときのことでした。その教会の礼拝で遠方に転居したために他住会員となり、時々出席する同年輩の一人の青年がいました。同年輩であったので私も彼と話すことがたびたびありました。彼は私の印象ではとてもまじめな青年という感じを受けました。

 あるとき礼拝で聖餐式が執行されたときのことです。その青年は私の目の前でその聖餐式のパンとぶどう酒が運ばれて来ると、それにあずかることを拒む姿勢を見せたのです。そのときの彼の顔にはいかにも「自分にはこの聖餐にあずかる資格がない」というような表情が見られました。おそらく、彼は自分の信仰生活を顧みて、そのような決断をしたのだと思います。

 しかし、彼はともかく、その姿を見て落ち着かなくなってしまったのは私の方でした。なぜなら「彼が聖餐式にあずかる資格がないとすれば、この私はどうなるのだろう…」と悩み始めてしまったからです。聖餐式の式文には陪餐を受ける者に「悔い改め」を示すようにという勧めが語られています。だから私には聖餐式にあずかれるような「悔い改め」があるのだろうかと迷いはじめてしまったのです。

 信仰生活を始めて間もない頃の私でしたが、当時の私は自分が模範的な信仰生活を送ることができていないことを悩んでいました。どんなにがんばろうとしても、自分の思い通りには信仰生活を送ることができない自分の弱さを感じざるを得なかったので末。しかし、私はこの後、教会で聖書や聖書の教理を学ぶことで、そんな私のためにイエス・キリストが十字架にかかってくださったと言うこと改めて知ることができました。そしてその上で、自分にはこれからもイエス・キリストの助けが必要であることを痛感したのです。そして聖餐式はそんな弱い私を助けるために神が与えてくださったものであると言うことを教えられたのです。

 神は私たち以上に、私たちのことをよく知ってくださっています。私たちの弱さをよくご存じなのです。そして聖礼典はその神が私たちのためにわざわざ定めてくださったものなのです。だから私たちは喜んでこの聖礼典にあずかり、神の助けをこれからも受けて信仰生活を送っていきたいのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まず、あなたもハイデルベルク信仰問答の問66の本文を読んでみましょう。

2.この問答は教会で行われる聖礼典が誰によって制定されたものだと教えていますか。

3.もしこの聖礼典が人ではなく神によって制定されたものだとしたら、それは私たちにとってどのような意味を持つと言えますか。

4.聖礼典が「しるし」と呼ばれる意味は何ですか。私たちは聖礼典のような私たちの目で見ることができる「しるし」によってどのような益を受けますか。

5.聖礼典が「封印」と呼ばれれている意味は何ですか。この言葉から私たちが聖礼典にあずかることは私たちの信仰生活にどのような助けを与えると考えることができますか。

2025.4.13「礼典とは何か」