2025.2.9「恵みと報酬」 YouTube
聖書箇所:ヨハネによる福音書15章1~5節
1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。
2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。
3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。
4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
ハイデルベルク信仰問答書
問63 しかし、わたしたちの善い行いは、神がこの世と後の世でそれに報いてくださるというのに、それでも何の値打ちもないのですか。
答 その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです。
問64 この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか。
答 いいえ。なぜなら、まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです。
1.人の善行は神の御前では役に立たない
人はどのようにしたら救いを受けることができるのか…。神に義と認められて救いを受けることができるのか…。ここのところ私たちがハイデルベルク信仰問答から学んでいるテーマは宗教改革者たちがもっと強調した、キリスト教信仰の根幹を支えるテーマであると言えます。宗教改革者たちが活躍した時代のカトリック教会は人が救われるためには信仰だけではなく、善き行いをすることが必要だと教えていました。それに対して、宗教改革者たちは人が救われるのは信仰によると主張し、そこに何かを付け足す必要はないと言ったのです。そして彼らがそう主張したのは、単なる彼らの思い付きや、個人的な考えではなく聖書がそう教えているからでした。ですから、神は人が救われるために善い行いを求めていないばかりか、むしろ善い行いは神の前では何の役にも立たないと宗教改革者たちは語ったのです。なぜなら、神が人に求めておられるのは完全な正しさであり、そのためには神の掟である律法をすべて落ち度なく守ることが必要だからです。私たちはそのことを前回の問62の言葉から学んで来た訳です。
人のする善い行いは、決して神を満足せるものではないと言うことを以前、ある人が体験した身近な話を通して説明していたこと思い出します。その人はあるとき、食事をするために近くにあった牛丼屋に行ったのだそうです。ご存知の通り牛丼は日本のファーストフードの代表格のようなものです。そのときも注文するや否や、すぐに目の前に牛丼が運ばれてきたと言うのです。ところがその人、運ばれて来た牛丼の上に一本の髪の毛が落ちていることを発見します。そこでその人はすぐに店員にそのことを説明しました。すると牛丼屋の従業員は「本当にすみません」と丁寧に頭を下げた後に、髪の毛の入った牛丼を自分の前から取り下げて、目の前でその中身をゴミ箱の中にポンと捨てたのだそうです。そして代わりにすぐに新しく作り直した牛丼を持って来てくれて、もう一度、「申し訳ありませんでした」と言って、その新しい牛丼を目の前に置いて行ったのです。
その人はその体験をした後で、もし店員が「すみません」と言いながらその牛丼から髪の毛だけを取ってお客に出したら、お客は良い気持ちはしないし、むしろその対応に腹を立てるかもしれない…。その人はそう言いながら、私たちが神の前でする善い行いはこの牛丼から髪の毛を取り出して、お客に出すのと同じだと言うのです。神はそんなことでは決して満足なさらない、それではむしろ神の怒りを増し加えるだけだと言うのです。そしてだから私たちに代わって何の傷も汚れもない神の御子が十字架にかかって、神の要求を満たす必要があったのだとその人は語っていました。
大変に面白いたとえです。人には「これくらいすれば大丈夫だろう…」と思ったとしても、神はそのようなことでは決して満足なさらないのです。ところが人が救われるのはキリストを信じる信仰だけだと主張した宗教改革者たちに対して、今度はカトリック教会の側から聖書は人が善い行いをすることを求めているし、また人がした善い行いに対して神が報いを与えてくださると教えているではないか…という反論したのです。今日、私たちが取り上げようとするハイデルベルク信仰問答の問63と64はこの反論に対しての宗教改革者たちの応答であり、聖書は人のする善い行いについてどう教えているかを解説しているのです。
2.聖書は善行を勧めている
確かに聖書は私たちが信仰生活の中で善い行いをすることを勧めています。しかし、ここで宗教改革者が語ったのは、私たちが救われるためには善い行いは何の役にも立たないと言ったのであって、善い行い自体を否定して、「善い行いなどする必要がない」と教えた訳ではないのです。
そもそも、善い行いにはそれ自体に大きな意味があるはずです。たとえば、道で誰かがケガをして倒れていた場合、救急車を呼んだり、その人を助けることは悪いことではありませんし、むしろ進んでしなければならにことでしょう。しかし、その目的は人を助けることで自分が神や人から何らかの報いを受けるためにするのではありません。その人を助けることこそに大切な意味があるのです。そのような意味で聖書は決して私たちが行う善い行いを否定している訳ではありませんし、むしろ善い行いに励むことを私たちに勧めていると言ってよいのです。
ただここで興味深いのは信仰問答が「その報酬は、功績によるのではなく、恵みによるのです」と教えている点です。これは私たちが住むこの世の常識とは大きく異なっています。なぜなら、普通は「報酬」つまり「ご褒美」と言えば、その人が何かをしたことに対して与えられると考えるのがこの世の常識だからです。会社のために懸命に働いた人にたくさんのボーナスが与えられて、そうでない人には与えられないのが当たり前なのです。ところが信仰問答はそうではなく神が私たちに与えてくださる報酬は、わたしたちのがんばりに対する評価ではなく「恵み」つまり、神の一方的な好意によって与えられるものだと言っているのです。実はこの結論を理解するためには、私たちはまず聖書が教えている私たちがなす善い行いの根拠、どうして私たちは善い行いをすることができるのかと言う理由をまず理解しなければなりません。そしてそこで大切になってくるのが、今日、この礼拝の朗読箇所として選んだヨハネによる福音書の言葉です。
ここではイエス・キリストは信じる私たちをぶどうの木の枝でたとえ、またイエス・キリストとご自身はそのぶどうの木であると教えられています。そしてイエスはこのたとえを使って、次のようなことを語ったのです。
「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)。
ぶどうの枝がたわわに実をつけるのは、ぶどうの木がその枝に実を結ぶように十分な養分を送り続けているからです。しかし枝がこのぶどうの木から離れてしまえば、その枝は実を結ぶことはできません。そのままでは枝は枯れるだけで、そして農夫は役に立たない枯れ枝を集めて燃やしてしまいます。私たちが善い行いをすることができるのも、私たちと繋がってくださっているイエス・キリストがおられるからです。イエス・キリストは信仰によって「接ぎ木され」そのぶどうの木であるイエス・キリストにつながっている私たちに聖霊を送ってくださって、信仰生活の中で善き行いをすることができるようにしてくださるのです。つまり、私たちが行う善き行いはもともとこのキリストのものであって、私たちによるものではないのです。だから、私たちが善い行いができたからと言って、私たちはそれを誇ることも、ましてや神にその報酬を要求する権利もないのです。それではなぜ、聖書は私たちのなした善き行いに対して、神が報いを与えてくださると言っているのでしょうか。
そのことについて、宗教改革者のカルヴァンは完結に次のように説明しています。「神はご自身がされた善い行いを、あたかも私たちがしたかのように見なしてくださり、報酬まで与えてくださる」と。つまり、神は私たちが善い行いができるように、すべての条件を整え、その力まで与えてくださったのに、私たちに「よくやった。がんばったね」と言って褒めてくださると言うことなのです。だから信仰問答が教えるように神からの報酬は私たちの功績によるものではなく、神の恵みによるものだと言えるのです。
3.なんのために善き行いに励むのか
現代社会では実証的な科学実験に基づいた学問が大切に重んじられます。心理学でも実証的な科学実験に基づいて生み出された「行動心理学」というものがあります。この行動心理学では問題行動を起こす可能性のある人々を矯正するために、条件つけと言う方法が用いられることで有名です。つまり、行動心理学ではそのような人が善いことをすれば褒美を与えて、その人が習慣的に善い行いができるようにと再教育して行くのです。ただこの方法には大きな落とし穴があると言われいます。なぜなら、その人は褒美をもらうために善い行いをするわけですから、褒美がもらえなくなれば、善い行いをする目的を失い、それをしなくなってしまうことになるからです。
社会主義という社会制度を考え出したマルクスは「すべての人が平等に暮らせる社会」を作りだそうと考えました。労働者を搾取する資本家たちが社会からいなくなれば、労働者は働けば働くほど豊かな生活を送ることができると考えたのです。しかし、彼の理想を実際に実現しようとして作られた社会主義の国々は大きな失敗を犯し、この世から次々と消えて行きました。その原因は、社会主義が生み出そうとした平等な社会では、人は努力して働こうとする意欲を失ってしまうからです。「一生懸命に働いても、みんなと同じ」。そうなると人は向上心さえ失ってしまうのです。結局、世界にわずかに残った社会主義国では人を恐怖で縛り付けて、指導者の命令に従うことでしか国民をコントロールできなくなっています。ハイデルベルク信仰問答問64は「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」と問うています。つまり、善い行いに対する報酬が恵みであるならば、だれも善い行いをしようとは思わなくなるのではないかと言っているのです。
前回、お話したように宗教改革当時のカトリック教会は「人はキリストを信じるだけでは天国に入ることができない」と教えて、功績を積むために善い行いに励むように勧めました。そしてそれができない人は教会に献金をして「贖宥符」を購入して、天国に入れるようにしなさいと教えたのです。これはある意味で当時の教会も人を恐怖でコントロールしようとしたと言えるのです。
4.感謝の実として
これに対して宗教改革者たちはキリストの救いの御業の完全性を主張して、それに善い行いのようなものを足す必要は全くないと教えました。しかし、だからと言って宗教改革者たちは信徒が善い行いに励むことを否定したのではありません。むしろ、彼等もまたキリストを信じる者が善い行いに励むことを積極的に奨励しました。しかし、宗教改革者が信徒に善い行いを勧めた理由はカトリック教会とは全く違いました。なぜなら、彼らは善い行いを神に救っていただいた者がその応答として表す「感謝」と教えたからです。
命の恩人に対して、お礼の一つも言わないというのは不自然です。もしそれができるとしたら、その人は本当の意味で自分の命が救われたという重大な事実を正しく理解していなからだと言えます。イエス・キリストは私たちの命を救ってくださった、私たちにとっての命の恩人です。しかもそのイエス・キリストは私たちを救うためにご自身の命までささげてくださったのです。その事実を知る私たちは、そのイエス・キリストに感謝を表さずにはおれなくなるはずです。そしてそのときに私たちが表すことができる感謝の方法は、神が望んでおられる善い行いに励むことであると言えるのです。
ヤコブの手紙には「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(2章17節)と言う言葉があります。宗教改革当時のカトリック教会は「だから人は信じるだけではなく、善い行いも必要なのだ」と教えました。しかし、宗教改革者はそうではなく、キリストを信じて救われた者が善い行いをすることは当たり前と主張しました。信仰があればそこに行いが伴うのは当たり前だと考えたのです。なぜなら、この信仰問答が語っているように「まことの信仰によってキリストに接ぎ木された人々が、感謝の実を結ばないことなど、ありえないからです」。
私たちは救われるために善い行いをするのではありません。キリストに救われた者として、その感謝を表すために善い行いをするのです。もちろん、私たちは簡単に聖書が教えるような善い行いをすることができる訳ではありません。むしろ自分の力では、神に喜ばれるようなことを何一つすることができないのが私たちであるとも言えます。しかし、私たち自身は無力であっても、私たちと繋がってくださっているイエス・キリストは違います。私たちのために命を捨て、そして復活されたイエス・キリストは私たちから決して離れることなく、私たちに聖霊を送り続けてくださる方です。そして私たちを日々新たに造り変えてくださり、神に喜んで感謝をささげることができる者としてくださる方なのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.まず最初にあなたもハイデルベルク信仰問答の問63~64の本文を読んでみましょう。
2.ハイデルベルク信仰問答が「私たちの善き行いには何の値打ちもない」と言っているのはどうしてですか(問62参照)。
3.神は私たちの善き行いに対して報いてくださるということについて信仰問答は、どのような説明をしていますか(問63)。
4.善き行いが無意味だと聞いて、「この教えは、無分別で放縦な人々を作るのではありませんか」と心配する人たちは、どのような理由でそう言うのでしょうか。
5.「信仰によって義と認めらえる」という聖書の教えが、無分別で放縦な人を作り出さない理由をこの信仰問答はどのように説明していますか(問64)。