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2025.2.23「情け深い神」 YouTube

聖書箇所:ルカによる福音書6章27~38節(新P.113)

27 「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。

28 悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。

29 あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着をも拒んではならない。

30 求める者には、だれにでも与えなさい。あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない。

31 人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。

32 自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。

33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。

34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。

35 しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。

36 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」


1.敵を愛しなさい

 今日はイエスが語ってくださった「敵を愛しなさい」(27節、35節)と言う言葉から皆さんと共に学びたいと思います。このイエスの言葉が書かれている聖書箇所は前回私たちが学びました「貧しい人々は、幸いである」(20節)という言葉に続けて語られたものであることがわかります。イエスのところに様々なところからやって来た人々、その中には病気や様々な問題を持って苦しんでいる人たちが沢山いました。現代のように社会保障制度など何も存在しない時代です。当然に病気になれば、今までの仕事ができなくなります。その結果、生活は貧しくなり、食べることさえ事欠くことになります。その上で病が癒やされる見込みがないとなれば、生きていく希望さえも失ってしまうはずです。そのような人々が一途の望みを抱いてイエスの元に集まりました。そして、イエスは彼らに向って「あなたたちは幸いだ」と語ってくださったのです。

 これも前回取り上げたように、このルカによる福音書が記しているイエスの言葉は、ほとんど同じようにマタイによる福音書にも記録されています。ルカは「平野の説教」と呼ばれ、マタイの場合には「山上の説教」と呼ばれるイエスのお話です。おそらく、ルカとマタイはイエスが様々なところで語られた言葉を収録したような共通の資料を持っていて、その資料の中からこのイエスの言葉を書き写したと考えられています。今日の聖書の言葉もマタイでは5章43節以下に記されています。

「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(43~44節)。

 興味深いのは鍵カッコで囲まれている「隣人を愛し、敵を憎め」と言う言葉です。イエスは「…と命じられている」と語っています。だから聖書のどこかに書かれている言葉なのかと思ってしまいますが、実はこのような言葉は聖書のどこを探しても見つかりません。つまり、この言葉は聖書には記されていませんが当時のユダヤ人たちが大切にし、人々に教えていた言葉だと言うことになります。ユダヤ人たちは聖書には直接書かれていなくても、このことは自分たちに神が命じていることだと信じていたのです。

 調べてみると当時のユダヤ人の文書では、「神はご自身の民に恵みを与え、そうでない者を厳しく裁かれる。神でさえそうなのだから、私たちも隣人を愛し、敵を憎むべきだ」と記しているものがあるそうです。つまり、この言葉は自分たちの信じている神がそのような方なのだから、自分たちもその神と同じように「隣人を愛し、敵を憎む」ようになるべきだと教えていることになります。


2.敵とは誰か

 このようにマタイでは「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、」と言う言葉につながって「敵を愛しなさい」と言うイエスの言葉が記されています。この点では私たちが今日読んでいるルカも「しかし」と言う言葉を使ってイエスの「敵を愛しなさい」と言う言葉を紹介しているのですが、ルカではマタイと違って「隣人を愛し、敵を憎め」と言う言葉は記されていません。それではこの「しかし」と言い言葉は何を指しているのでしょうか。ルカはこの文章の直前に次のようなイエスの言葉を紹介しています。

「すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである」(26節)。

 旧約聖書には「偽預言者」と言う人々が度々登場します。彼らは実際には自分が考えた言葉でしかないものを「神からの言葉だ」と偽りを語り、人心を迷わす人々でした。それではなぜ、そのような偽預言者の言葉が多くの人々に影響を与えたのでしょうか。それは彼らが人々の望んでるような言葉を語ったからです。たとえば、旧約聖書に登場するエレミヤという預言者は神に背き続けるイスラエルの民に下される神の裁きを人々に伝えました。そのためエレミヤは人々に憎まれることとなりました。一方で偽預言者と呼ばれる人々は民に都合のよい言葉を語ります。だから民は偽預言者の言葉に耳を傾け、彼らは人々に「ほめらる」ような存在となったのです。しかし、結果的に神の言葉に背くことになったイスラエルの民は神の厳しい裁きを受け、国を失い、多くの住民が殺害され、また他国に捕虜として連れていかれるという悲劇の道をたどって行きます。

 イエスはこの偽預言者とたちとは違い、神の言葉に従おうとする人たちについて、次のように語っています。

「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである」(22~23節)。

 まことの預言者は人々に気に入られることを語るのではなく、神の言葉を語ります。また人々に従うのではなく、神に従おうとします。すると当然、そのように生きる人を「憎む」人々が現れます。前回、イエスが自分の周りに集まって来た人々に向って「あなたたちは幸いです」と言ったことについて、彼らが今、救い主であるイエス・キリストに出会っていることが「幸い」なのだと語っていることを学びました。そこで今日の箇所は、そのイエス・キリストに出会い、そのイエスに従って生きようとする人たちがどのような生き方を選んでいくべきかを教えている箇所だと考えることができるのです。ルカは、イエス・キリストを救い主と信じて生きようとする人々にこの福音書を記しました。当時のキリスト教会は最初、ユダヤ人たちからの厳しい迫害を受けました。そしてキリスト教会はその後にはローマ帝国という巨大な権力からの迫害を受けたのです。

 このような事情を考えるならば、今日のイエスの「敵を愛しなさい」と言う言葉が言っている「敵」とは誰なのかと言うことが分かって来るはずです。それは私を攻撃し、私の生き方を邪魔する人々ではありません。イエスの言う敵とは、イエスを救い主と信じ、その方に従おうとするときに現れて来る「敵」、つまりキリスト教会を迫害し、その教会に集まる人々を迫害しようとする人のことを言っているのです。

 ここでイエスは「あなた方を憎む者」、「悪口を言う者」、「侮辱する者」、あるいは「頬を打つ者」、「上着を奪い取る者」の存在を語り、彼らにどのように接するべきかを教えています。おそらくこれらの行為は実際に迫害されていた当時の信仰者が受けていたものだと推測することができます。そして、ルカはそのような状況に立たされている者たちが頼るべき指針としてここにイエスの言葉を記したと考えることができるのです。


3.罪人でもしている

 この後にイエスは「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(30節)と言う言葉を語ります。この言葉は古くから「黄金律」と呼ばれ、人々とよく知られている言葉です。私はこの言葉がセールスをする者にとって一番大切な原則だと教えるビジネスマン向けに書かれた書物を読んだことがあります。顧客のニーズに合わせることこそがビジネスにとって一番大切なことだと言っている訳ですが。ところがそれだけを考えると「人にほめられる」ことを望んで行動した偽預言者はある意味で、ベストセールスマンであると言うことになってしまいす。

 このイエスの言葉を前後関係から考えなおすなら、自分たちを迫害する人々に抵抗しないようにと言う言葉に続いて、むしろその人たちに私たちがすべきことはこのようなことだとイエスが教えてくださっていると考えることができます。なぜなら、先ほどのセールスの場合では「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」という黄金律を使って、結局は自分に利益をもたらすことが目的となると言えます。しかし、イエスはこの言葉に続いて「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」(32~34節)と語っています。つまり、この黄金律は自分に帰って来るような報いを求めてするものではないと教えているのです。

 このイエスの言葉で私たちが誤解してはならないのは「罪人」と言う言葉が何回も登場するところです。聖書の言葉にあまり慣れていない人はこの言葉を「ざいにん」と呼んで、何か法律に違反するような罪を犯す人々、そういう意味では「悪人」と呼ばれる人たちを考えるかも知れません。しかし、聖書が言う「罪人」はそのような人々ではありません。ですから、マタイによる福音書では「罪人」と言う言葉を「徴税人」(5章46節)や「異邦人」(同47節)と言う言葉で読み換えています。つまり、この「罪人」と言う言葉は神を信じない人々、信仰を持たない人々を指す言葉だと言えるのです。そしてここから考えて見ても今日の「敵を愛しなさい」と言う言葉がイエスを信じる信仰者に向けて語られていることが分かるのです。


4.憐みふかい父

 さてイエスを信じる信仰者はなぜ「敵を愛する」べきなのか。むしろ相手からの見返りを求めることなく「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」と勧めているのか。その理由が35節と36節に次のように記されています。

「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

 ここを読んで「なんだ、イエスもやっぱり報いがある」と言われているではないかと思う方もいるかも知れません。しかし、ここで語られている報いは自分を苦しめている相手から、あるいは自分が親切した相手からではなく、「いと高き方」つまり神から与えられると言われているのです。私たちは相手から理不尽なことをされたときに、その相手を何とか懲らしめてやろうと思います。またせっかく親切な行為を示したのに、その親切に答えることをしない人に不満を抱き、怒りさえ覚えることがあります。しかし、イエスはここでその私たちの心を私たちの目の前にいる相手ではなく、神に向けなさいと教えているのです。

 アメリカの公民権運動のリーダーとして活躍したマルチン・ルーサー・キング牧師は非暴力という戦いの方法を選び、人間を人種や出身地で差別する社会を変えようとしました。そのキング牧師についてこんな話を聞いた覚えがあります。あるとき、キング牧師やその支持者が集まっている施設の建物の周りをたくさんの人種差別主義者が取り囲みました。一触即発と言うのでしょうか、施設の中に集まった人々は「自分たちはどなってしまうのか…」と言う恐怖に陥り、パニックのような状態になったと言います。その時、キング牧師は集会に集まった人々に向って「神を賛美しましょう」と呼びかけ、讃美歌を歌い始めました。キング牧師は「もう一度歌いましょう」、「もう一度歌いましょう」と呼び掛けたと言います。するとパニックになっていた人々が冷静さを取り戻し、正しい判断をすることができるようになって、この危機を乗り越えることができたと言うのです。

 このお話からも分かるように、神を信じる私たちに最も求められていることは、私たちの心を神に向けることです。相手への憎しみや、恨みを私たちは自分の力では捨てることができないかも知れません。しかし、そのような思いを持ったままでもよいのです。私たちの心をまず神に向けることが必要なのです。以前、教会の礼拝にお誘いした方に「わたしはもう少し修行を積んでまともになってから、教会に行こうと思います」と丁寧に断られたことがありました。「まともになる」と言う言葉が何を意味しているのかその時には分からなかったのですが。私たちがもし、自分の問題を解決しなければ神の前に出て行けないとしたら、私たちはいつまでも出ていくことできなくなります。なぜなら、私たちは自分の抱える問題を解決させる力を自分では持っていなからです。

 今日のイエスの言葉の最後はこう締めくくられています。「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」(36節)。私たちが憐れみ深くなれるとしたら、それは私たちに対して憐れみ深い神がおられ、その方が私たちに働いてくださるからです。使徒パウロはローマの信徒への手紙の中で次のような言葉を語っています。

「(私たちが)敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいたのであれば、和解させていただいた今は、御子の命によって救われるのはなおさらです」(5章10節)。

 私たちの希望はかつて神の敵であった私たちのために十字架にかかって死んでくださり私たちを神の子としてくださったイエス・キリストにあります。そのイエス・キリストの力が私たちを通して発揮されることにあるのです。ですから「敵を愛しなさい」と言う言葉はこのイエスを信じる私たちに語られている神の言葉だと言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.イエスの「貧しい人々は幸いです」(20~26節)と言う言葉を聞いた人々にここでどのようなことを勧められていますか(27~30節)。

2.「人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい」(31節)と言うイエスの言葉を聞いて、あなたは何を人にしなければならないと思いますか。

3.「罪人=神を信じない人々」はどのような人を愛し、またどのような人に善いことをするのでしょうか。また誰に自分のものを貸すのですか(32~34節)。

4.イエスは敵を愛し、善いことをする者が期待を寄せなくてはならない相手は誰だと教えていますか(35節)。

5.この方は私たちに救い主イエス・キリストを遣わすことによって私たちにどのようなことをしてくださいましたか(36節)。

2025.2.23「情け深い神」