2025.2.16「幸いと不幸」 YouTube
聖書箇所:ルカによる福音書6章17,20~26節(新P.112)
17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、
18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。
20 さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。
21 今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。
22 人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである。
23 その日には、喜び踊りなさい。天には大きな報いがある。この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
24 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、/あなたがたはもう慰めを受けている。
25 今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、/あなたがたは飢えるようになる。今笑っている人々は、不幸である、/あなたがたは悲しみ泣くようになる。
26 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。この人々の先祖も、偽預言者たちに同じことをしたのである。」
1.山上の説教と平地の説教
①幸せを見つけられない
子どものころテレビでよく見かけた落語家が「山のあなたの空遠く「幸(さいは)ひ」住むと人のいふ」と言う言葉を繰り返し語る姿を思い出しました。少し気になったので、この言葉を調べてみるとドイツの詩人カール・ブッセの詩であることが分かりました。山のかなたにあると言われている幸せに満ちた理想郷を求めて旅立ったが、結局、その場所を見つけることができずに涙を流しながら帰ってきたという内容の詩であると言うことです。つまり苦労の多いこの世にはそのような理想郷はどこにも存在しないと言っているのでしょうか。あるいは子どものころにはそのような理想を抱けても、大人になれば現実的となり「これが人生だ」と諦めることになるような人間の姿を語っているのかも知れません。
最近、テレビでよく見るコマーシャルの中に「子どもの幸福度ランキング、ワースト二位」と現代の日本の姿を紹介するものがあります。今の日本では幸せは大人だけではなく、子どもまでも感じられなくなっている、そんな現実の姿を私たちに訴えているのでしょうか。
そもそも「幸福」、あるいは「幸せ」とはいった何なのでしょうか。あらためてそう問われると答えることが難しいのがこの言葉であると言えるかも知れません。カウンセリングの目標は「自己実現」、つまりその人が「生きていてよかった」と感じることができるようになることだと学んだことがあります。しかし多くの人は、自分の人生にいつも不満を持ち「生きていてよかった」とは言えないでいるのが現実なのです。だからこそそのような人々が自己実現を果たすことができるようにカウンセリングのような技術が必要になるのかも知れません。
②イエスの同じ言葉を記したマタイとルカ
イエス・キリストの語られた有名な言葉の中に「心の貧しい人は、幸いである」(マタイ5章3節)というものがあることを皆さんもよく知っておられると思います。教会によってはこの聖句が大きな文字で書かれて、貼りだされているところもあるくらいです。しかし、考えて見るとこのイエスの言葉も有名ではあるのですが、それが正しく理解されているのかどうかは怪しいところがあります。いったい、イエスはこの言葉を通して何を教えられているのでしょうか。それを知るためにはそもそもイエスは人間の「幸せ」についてどのような考えを持っておられるのかをまず理解する必要があると言えます。
今日、私たちが学ぶ聖書箇所は今、引用したマタイによる福音書の5章に記されたイエスの言葉とほとんど同じ言葉をルカによる福音書が記した箇所です。近代になって聖書学の発展により、マタイとルカは私たちが知っているマルコによる福音書の内容をよく熟知していて、それを参考にしながら、さらに別のイエスの言葉を集めた共通の資料を持っていて、それも使いながら自分たちの福音書を記したと考えられるようになりました。今日のルカの箇所やマタイの5章の部分の言葉はマルコによる福音書には記されていないのですが、マタイとルカは彼らが持っていた別の資料に基づいてこの箇所の内容を記したと考えられているのです。
ただ同じ資料を用いていながらもマタイとルカはそれぞれ違った視点でイエスの生涯を紹介しようとしています。特に彼らは自分の書いた福音書を読ませようとした読者もそれぞれ違っています。ですから、マタイとルカは当然のように同じイエスの言葉を紹介しながらも、その内容は微妙に異なるものとなっているのです。特にこの部分を紹介するマタイとルカの違いは、マタイは長文に渡って詳しくイエスの語られた説教を記したのに対して、ルカはとても簡潔にイエスの言葉を記し、読者たちに紹介していることです。また、マタイではイエスがこのお話を語られたのは山の上であるのに対して、ルカでは「平らな所」、つまり平野になっています。また、その他にも特に大きな違いはイエスから「幸いです」と言われているのはマタイでは「三人称」、つまり「彼ら」と言われているのに対して、ルカでは「二人称」、つまり「あなたたち」と言う言葉になっているところです。ですからこの箇所のイエスの言葉を正しく表現しようとするなら、「貧しい(あなたたち)は、幸いである」と翻訳するのが正しいと言えます。
私たちはこの違いも考慮しながら、イエスが「幸せ」について何を語っているのかを学んでみたいと思うのです。
2.幸いとは何か
①貧しい人
ここで使われているギリシャ語の「幸い」という言葉は、神話の中に出て来る神々が何事にも揺り動かされず、どっしりとしている状態を語るときに使われる言葉だと言われています。つまり、人間がその状態に達するためには様々な条件をクリアしなければなりません。ですから、人間の場合には莫大な財力を持つ王様や貴族の姿を形容するときのみにこの言葉が使われることになる訳です。ところがイエスがこの言葉を使って表現しようとしている人々は、本来のこの言葉の使い方とは全く正反対の状況に立たされている人であることが分かります。なぜなら「貧しい人々は、幸いである」とイエスは語っているからです。
先ほど引用したマタイは「心の貧しい人は、幸いである」と語っています。つまり、ここで言う「貧しさ」は物質的なことと言うよりは精神的なもの、霊的な貧しさことを指すとマタイは言うのです。ところがルカではそのような表現とは違って単純に「貧しい人」とだけ語られています。ですから聖書学者たちの見解では本来のイエスの言葉はこのルカが採用したもので、マタイはそのイエスの言葉にわざわざ「心」と言う言葉を書き加えたと説明しています。
またこの「貧しい人」とはギリシャ語では「物乞い」のような人を表す言葉だと解説されています。つまり、とても貧しくて誰かから何かを恵んでもらわないと生きていけない人々だと言うのです。ただ、実はこの言葉を元々語られているイエスはおそらく福音書記者が記録したギリシャ語ではなく、アラム語というヘブライ語の親戚のような言葉を語っていたと考えられています。このヘブライ語での「貧しい」と言う言葉は「圧迫されて小さくなっている人」と言う意味があり、むしろ単なる物質的な貧しさだけではなく、もっと広範囲な意味を語っていると言えるのです。
ルカによる福音書はこの後の19章で徴税人ザアカイと言う人物を紹介しています。彼は徴税人の頭で金持ちでした。しかし、その反面でユダヤ人の仲間を裏切り、ローマに魂を売った人間として人々から軽蔑され、差別されていました。だからこそ彼は満たされない思いを持って生きていたのです。だからヘブライ語の「貧しさ」という意味から言えば、このザアカイも、その一人であると言えるのです。
②神の国はあなたがたのもの
それではなぜ、「貧しい人は幸いだ」とイエスは語るのでしょうか。この後にイエスはこの言葉に続けて、「今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる。」(21節)とも語っています。なぜ飢えている人が満たされ、泣いている人が笑うようになるのでしょうか。その謎を解くカギは、やはり最初の「貧しい人は幸いだ」と言われるイエスの言葉で語られる「神の国はあなたがたのものである」と言う言葉に隠されていると考えることができます。
マタイではこのところが「天の国」と言う言葉で置き換えられて記されています。これはマタイがユダヤ人に向けて自分の福音書を記したと考えられていて、ユダヤ人は「神の御名を濫りに唱えてはならない」と言う戒めに厳格に従っていたのでわざわざ「神」と言う言葉を「天」と言う言葉に置き換えて表現したと言われています。ただ、「天の国」あるいは「天国」と言われると「死んだ人が行くところ」と考える人も多いかも知れません。その点ではルカの「神の国」と言う表現の方が誤解をせずこの言葉を読むことができるかも知れません。なぜなら、聖書が語る「神の国」は今を生きる私たちの人生と深いかかわりを持っているものだからです。イエスが語る「神の国」、それは神が御支配くださる場所と言うことができます。つまり、神が私たちの人生を支配してくださることが聖書の語る神の国の祝福だと言えるのです。
それではこの神の国は私たちにとってなぜ「幸い」なものと言えるのでしょうか。このことについて私たちが毎月学んでいるハイデルベルク信仰問答は、「私たち自身がキリストのものとされる」と言う表現を使ってイエスが教えた神の国の祝福について解説しています。この信仰問答は私たちの人生の唯一の慰めについて次のように語っています。
「わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。この方は御自分の尊い血をもって、わたしのすべての罪を完全に償い、悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。また、天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、わたしを守っていてくださいます。実に万事がわたしの救いのために働くのです。そしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、今から後この方のために生きることを心から喜びまたそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。」(問1)
このように貧しい者に与えられる神の国の祝福は、私たちを冷たくまた無味乾燥な運命論から解放し、たとえどんな困難な状況に私たちが置かれたとしても、決して希望を捨てることなく生きていくことができる…、そのような祝福を語っているのです。
3.あなたたちは幸い
今日の聖書箇所を読むにあたり忘れてはならないのはイエスが「あなたたち」と言う言葉を使ってこの言葉を特定の人に向けて語っているという事実です。それではイエスがここで「あなたたち」と呼んでいるのはどのような人たちなのでしょうか。聖書は、このときイエスの周りに集まって、このイエスの話を聞いた人たちについて次のように語っています。
「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた」(17~18節)。
この時にイエスの周りには国中からたくさんの人々が集まって来ていました。その中には病人がたくさん混じっていたようです。彼らは医者に診てもらっても、薬を飲んでも病が癒やされない人々でした。いえ、多くの人は医者に診てもらうことも、薬を買うこともできないほどに貧しい人だったのかも知れません。彼らは貧しくて満足な食物を手に入れることのできない人々でした。だから彼らは「飢えている人」でもあったのです。そして彼らはこの世の厳しい現実の中で涙を流して「泣く」ことしかできない人々でもあったのです。そのような人たちがイエスのところに押し寄せて来て、イエスの周りに集まったのです。そしてイエスはこの人たちに向って「あなたたちは幸いだ」と語りかけたと言うのです。
4.イエスに出会うことの幸い
ヨハネによる福音書9章に登場する「生まれつき目の見えない人」は、貧しさの故に、またその障害のために道端に座って物乞いをすることしかできない人生を送っていました。その上、彼がそのような障害を抱えて苦しむのは「だれが罪を犯したからか、本人か、それともその両親か」という偏見に満ちた人々の言葉を浴びて生きていました。そのような意味で彼はまさに「貧しく」「飢えていて」、また「泣いている」人でもあったと考えることができます。
しかし、彼の人生はイエス・キリストが語られた「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)と言う言葉を聞くことで全く変えられて行きます。そして彼はこの言葉を通してイエス・キリストに出会い、そのイエス・キリストを通してさらに自分が神の愛の中に生かされていること、神の国の祝福の中に生かされていることを知ったのです。
聖書は私たちの人生が幸せになれるような生き方を教える「How to」本のようなものではありません。聖書は私たちを私たちの救い主であるイエス・キリストに導き、その方と出会うために書かれた書物なのです。そして聖書は今、この救い主イエス・キリストの救いを受け、このように神を礼拝するために集められている私たちに向って「あなたたちは幸いです」と語っているのです。なぜなら、私たちもまた、今既にこのイエス・キリストによって「神の国」の祝福の中に生きるものとされたからです。そのような意味で本当の「幸い」は山の彼方のようなところに探し求めに行かなければならないものではありません。私たちはイエス・キリストによって今既に真の「幸い」を見出しているからです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.このときイエスの話を聞きくために集まって来た人たちはどのような人たちでしたか(17~18節)。
2.イエスはなぜ「貧しい人々は、幸いである」と言ったのですか(20節)。また、「今飢えている人々」や「今泣いている人々」はどのようになると言っていますか(21節)。
3.イエスは「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき」はなぜ幸いだと言っているのですか(22~23節)。
4.それではなぜ「富んでいるあなた方は不幸である」とイエスは言うのですか(24節)。また「今満腹している人々」や「今笑っている人々」はどうなると言っていますか(25節)。
5.「すべての人にほめられるとき」は、なぜ不幸なのですか。イスラエルの民の先祖たちや偽預言者たちは「すべての人にほめられる」ために何をしたと言うのでしょうか(28節)。