2025.12.14「キリストの最後の晩餐と聖餐式」
ヨハネによる福音書6章31~35節(新P.175)
31 わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
32 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。
33 神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」
34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、
35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
ハイデルベルク信仰問答書
問76 十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか。
答 それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ。
それ以上にまたキリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです。
それは、この方が天におられわたしたちは地にいるにもかかわらず、わたしたちがこの方の肉の肉、骨の骨となり、ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです。
問77 信徒がこの裂かれたパンを食べ、この杯から飲むのと同様に確実に、御自分の体と血とをもって彼らを養いまた潤してくださると、キリストはどこで約束なさいましたか。
答 聖晩餐の制定の箇所に、次のように記されています。
わたしたちの「主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『(取って食べなさい。)これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい』と言われました。だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」。
この約束はまた聖パウロによって繰り返されており、そこで彼はこう述べています。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。
1.ハイデルベルク信仰問答と聖餐式論争
①様々な教派に分かれているキリスト教会
皆さんもご存知のようにキリスト教会には様々な教派と言うものが存在しています。たとえばローマに本拠地を持っているカトリック教会はとても有名です。またロシアやウクライナなど東欧諸国には「正教会」と呼ばれるカトリック教会とは別のキリスト教の教派が存在しています。日本では御茶ノ水の駅前にあるニコライ堂と呼ばれる教会がこの「正教会」のグループに属しています。カトリック教会とこの正教会は今から1000年ほど前に世界のキリスト教会が東西に分裂することで生まれました。その後さらに600年ぐらい経ってカトリック教会から分裂して誕生したのがプロテスタント教会と呼ばれるグループです。日本の学校教育ではカトリック教会を「旧教」と呼び、プロテスタントを「新教」と教えることがあるかも知れません。実はこの新教と呼ばれるプロテスタント教会は一つではなく、その中には様々な教派が存在しています。そのプロテスタント教会の中で代表的なものの一つがルーテル教会と呼ばれる教派で、ここ東川口では「ルーテル学院」と言うミッションスクールが存在するので皆さんにも馴染があると思います。さらにもう一つ宗教改革で生まれた代表的な教派が「改革派教会」と呼ばれるもので、私たちの東川口教会はこの教派に属しています。
なぜ、キリスト教会がこのように様々な教派に分裂しているのかという理由は簡単に説明するのは難しいかも知れません。しかし、その大きな原因として考えられるのは聖書の読み方や、その解釈の仕方が違うことによって教派が生まれたと言う理由です。
日本には長く多くの人々の信仰の対象になっている仏教という宗教があります。この仏教にもさまざまな宗派が存在することを皆さんも知っておられるでしょう。仏教では宗派が異なると信じる経典が違うという特徴があります。しかし、キリスト教会はどの教派も同じ聖書を信じている点では仏教と大きく異なっていると言えます。つまり、信じる聖書は同じであっても、その解釈の違いによって様々な教派が生まれると言ってよいのです。
私たちが今、この礼拝で学んでいるハイデルベルク信仰問答書や毎週の礼拝で読んでいるウエストミンスター小教理問答書は私たち改革派教会が聖書をどのように理解しているのかを教える書物であると言うことできます。
②ハイデルベルク信仰問答が誕生した背景
今、私たちはハイデルベルク信仰問答と言う書物から教会で「聖礼典」と呼ばれている「洗礼」や「聖餐」と言う儀式について学んでいます。特にこのハイデルベルク信仰問答はこの「聖餐」、つまり教会の礼拝の中で出席者がパンとぶどう酒にあずかることの意味について詳しく説明している点に特徴があります。それはこの信仰問答が誕生した理由と関係があるからです。
この信仰問答は宗教改革の時代に現在のドイツあった小さな国で作られました。当時、先ほども触れましたように宗教改革で生まれたプロテスタント教会の間でもルター派と改革派の間には解決できない神学論争が存在していました。それがこの聖餐についての論争です。これはキリストが聖餐式のパンとぶどう酒の中にどのように存在するのかという論争です。この論争の内容をここで説明するのは難しいのですが、当時、論争の当事者の間では対立が深まるばかりで解決がつかない状態にありました。そしてついにはこの小さな国のある教会の礼拝で行われていた聖餐式の場面で牧師同士が殴り合いのけんかをすると言う事件が起こったのです。当時この出来事を深刻に受け止めた、プロテスタントの信仰を持ったこの国の領主は何とか問題を解決したいと考えました。そしてその領主の依頼によって作られたのがこのハイデルベルク信仰問答と言う書物です。ですから、この信仰問答が作られた目的は宗教改革で生まれたプロテスタント教会がお互いに争うことなく、一つになって礼拝をささげることができるためであったと言うことできます。
少しハイデルベルク信仰問答成立について説明が長くなりましたが、この信仰問答が特に丁寧に聖餐について説明しているのは、このような歴史的な事情があったからだと言えるのです。
2.キリストの救いの恵みをいただくために
今日の問76は「十字架につけられたキリストの体を食べ、その流された血を飲むとはどういうことですか」と言う質問で始まっています。信仰問答は私たちが礼拝の中でパンを食べ、そしてぶどう酒を飲むのは、キリストの体を食べ、その血を飲むことを意味しているとここで教えているのです。そして信仰問答はこの問いに答えて「それは、キリストのすべての苦難と死とを、信仰の心をもって受け入れ、それによって罪の赦しと永遠の命とをいただく、ということ(です)」と説明しています。
私が牧師になって最初に赴任したのは、先日も大変に大きな地震があってニュースになった青森県の三沢市と言うところでした。当時、私は神学校を卒業したばかりで、まだ独身でしたから一人ぼっちでこの慣れない青森の地で生活することになりました。私が一人で生活をしていて一番、大変だったのは食事をすることでした。それまで私は料理など作ったことがありませんでしたから、毎食ごとに弁当のようなものを買って暮らすことになりました。やがてそんな生活に不満を感じた私は、「たまにはおいしい料理を食べてみたい」と考えました。そして本屋に行って、何冊かの料理の本を買って来たのです。それは自分でその本を見て料理を作ろうとしたわけではありません。その料理本に印刷されているおいしそうな料理の写真を見たら、少しは自分の空腹も満たされるかも知れないと思ったからです。しかし結果は、全く逆効果で私はその本を見るたびに、ますます空腹感に深く感じることとなりました。
私たちが神のことや、キリストのことを知るために聖書を読むことは大切であると言えます。しかし、ただ聖書を読んだだけでは、またその知識を得ただけでは私たちの人生は変わることがありません。大切なことは聖書に書かれた神の約束、キリストの約束が私のためのものだと信じて、受け入れることです。そのようにすることを私たちは「信仰」と呼んでいるのです。
聖餐式で私たちがパンを食べ、ぶどう酒を飲むことは、キリストが十字架の上でその肉を裂かれ、血を流されたことが「私のためである」と言うことを信じて、受け入れることを意味しています。ですから私たちが礼拝の中で行う「食べる」、「飲む」と言う行為は、私たちの信仰をそのような行動で表すものだと言ってよいのです。
信仰問答はここでキリストの体と血であるパンとぶどう酒を信仰を持ってあずかる者に、キリストが御自身の御業を通して勝ち取ってくださった「罪の赦しと永遠の命」が受けることができると説明しているのです。
3.聖霊によってキリストと一体化される私たち
さらに信仰問答は私たちが聖餐式において、キリストの肉と血にあずかることについてもう一つ重要なことを教えています。そのことについて信仰問答は次のように説明しています。「それ以上にまたキリストのうちにもわたしたちのうちにも住んでおられる聖霊によって、その祝福された御体といよいよ一つにされてゆく、ということです」。
今から二千年前にこの地上に来られた救い主イエスは、しばらくの間、この地上に留まりその弟子たちと行動を共にされました。その後、イエスは十字架にかけられて死なれましたが、すぐに復活されて、その姿を弟子たちの前に現わしてくださいました。聖書はその後、このイエスが天に昇って行かれたと証言しています。この聖書の記述によればイエスは今も、天おられ、そこで生きておられると言うことが分かります。それでは天におらえるイエスと、今、この地上に生きてる私たちとの間にはどのような関係が成り立つと言うのでしょうか。イエスはかつて弟子たちに次のような言葉を語られました。
「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハネ14章16~19節)。
信仰問答はキリストが天から遣わしてくださる「真理の霊」を聖霊と呼んでいます。そしてこの聖霊の働きによって、地上に生きている私たちが、今も天におられるキリストと一緒に生きることができるようにされると教えるのです。さらにただ一緒に生きるだけではなく、むしろイエスと私たちが一つの体とされることを聖餐式は示していると教えているのです。 信仰問答は続いて「ちょうどわたしたちの体の諸部分が一つの魂によってそうされているように、わたしたちが一つの御霊によって永遠に生かされまた支配されるためなのです」とも説明しています。
私たち一人一人は今聖霊の働きによって天におられるイエス・キリストと一体化されています。つまり、教会に集まり、この聖餐式にあずかる私たちはイエス・キリストと一体化されることで、一つの体として集められていると言うのです。教会に集められている私たちはそれぞれ育った環境も違いますし、それぞれ違った個性を持った人間として集められています。しかし、それでも私たちはこのイエス・キリストを通して一つの体とされていることを聖餐式にあずかる者は知ることができるのです。
4.キリストの約束に基づく聖餐式
このように信仰を持ってこの聖餐式にあずかる者には救い主イエスが実現してくださった罪の赦しと永遠の命の祝福が与えられます。また、救い主はその人々の上に聖霊を送ることで、私たちを御自分の一体化にしてくださるのです。
このように食べたり飲んだりする行為を自分たちの信仰を表すために用いる宗教は他にはあまりないかも知れません。ただ、聖書は旧約聖書の時代からこの食べたり飲んだりする行為を自分たちの信仰を表すものとして大切にしています。これはイエスが私たちのために聖餐式を定めてくださった最後の晩餐と言う出来事にも表されています。聖書によれば、この食事はユダヤ人たちが大切にしていた「過越し祭りの食事」であったと説明されています。この食事は、昔イスラエルの民がエジプトの奴隷状態から神の御業によって解放されたことを示し、代々に渡ってこの出来事を語り伝えるための食事会であったと言えます。そしてイエスはこの食事会に新たな意味を私たちのために与えてくださったのです。それが問77が聖書から引用しているキリストの制定の御言葉の中に説明されているのです。
このように私たちが礼拝の中で聖餐式を行い、パンを食べ、ぶどう酒を飲むのは、キリストご自身が「そうしなさい」と私たちに命じておられるからであると言えます。キリスト教会はこの時以来、二千年の間、この救い主イエスの御言葉を信じて、聖餐式を礼拝の中で守り続けてきました。それはこのイエスの言葉の通りに聖餐式にあずかる者は神からの祝福を豊かに受けることができると信じているからなのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.あなたもハイデルベルク信仰問答の問76と77の本文を読んでみましょう。
2.聖餐式で「キリストを食べる/飲む」とは、信仰生活でどのような経験を指していると思いますか。
3.パンと杯を通して“霊的に”キリストと一体となる、ということをどう理解できますか。また、「キリストが私の内に、私がキリストの内に」という表現は、私たちにどのような慰めを与えますか。
4.聖餐式に与る時、あなたの信仰はどのように強められると感じますか。また、この聖餐が信徒の交わりと一致を象徴するとはどういうことでしょうか。