2019.9.22「墓に葬られる救い主」
マルコ福音書15章42〜47節
42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、
43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。
44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。
45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。
46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降ろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
1.知らない死を恐れる人間
①無知の知
有名なギリシャの哲学者ソクラテスは人々を正しい知識に導くために、まず人間が何も知っていないのに、すべてを知っているかのように思い違いをしているという点を指摘しました。そして自分と出会う人々にまだ自分は何も知っていないと言うことを分からせるために質問をしたのです。なぜなら、人間は「自分はまだ何も知っていない」と考えるからこそ、正しい知識を知ろうと努力することができるからです。自分が無知であることに気づくことが真理を探求する人生を始めるためには必要なのです。
ときどき、一緒に聖書を読んでいると「ここに書かれていることすべては、私の考えていたことと同じです」という人に出会います。確かにその人が聖書に書かれている真理を抵抗感なく受け入れ、同意できると言うことは素晴らしいことだと思います。しかし、もし聖書が教えている内容が、その人が言っているように「すべて自分の考えと同じだ」としたら、その人はもうそれ以上聖書を読む必要はないと言うことになります。なぜなら、その人は聖書を読まなくてもすでに自分の力ですべての真理を知っていると言うことになるからです。
私たちが聖書を毎日読む必要があるのは、聖書を読まなければ真理を悟ることができないからです。長い信仰生活の中で聖書を読み続けてきたとしても、自分はまだ本当にこの聖書の教えの内容をまだ十分に理解していないと考えるからこそ、聖書を読み続けることができるのです。自分は聖書の教える真理をまだよく知らない、その真理の内容をまだ正しく理解していないと考えることは、聖書を学ぶ者が知らなければならない大切な真理なのです。
②死を知っていると考える人間の誤解
ところでソクラテスは人間が死を恐れることについても同じようなことを言っています。人間は「何も知らないはずの死を勝手に想像して、恐ろしいものと決めつけている。それは知ったかぶりをしているのと同じだ」と批判するのです。人間は誰も自分が実際に死ぬまで死を経験することはできません。自分が経験できないものを、どうして正しく理解することができるでしょうか。ですからソクラテスは「もしかしたら死は人間にとって最も素晴らしい最善の出来事かも知れない」と私たちに語っているのです。
死を実際に体験して、「死とはこういうことだ」と私たちに教えてくれる人はこの世にはいません。笑い話の中に「あの世は相当、よいところらしい」と言う話があります。「なぜなら、そこに行った人はすっかりそこが気に入ってしまったせいか。まだ誰もこの世に帰って来た人がいない」と言うのです。
私たち人間にとって死は何時も未知の出来事であると言えます。その死の現実を教える資格を持つのはその死を実際に自分で経験して、その上で私たちのところに帰って来た人だけであると言えるのです。聖書はその資格を持っておられる唯一の方がおられると教えています。それは実際に死から甦ら、この地上に戻って来てくださった私たちの救い主イエスです。今日は、このイエスの死と言う出来事から、私たちが死について何を知ることができるのか、そのことについて少し皆さんと考えて見たいと思います。
2.イエスの死
①三人の証人
今日の聖書の箇所では十字架で死なれたイエスの遺体が墓に葬られたと言う出来事が紹介されています。この箇所には主に三人の人物の名前が登場しています。まず登場するのはアリマタヤ出身のヨセフと言う人物です。彼は「身分の高い議員」であったとも紹介されています(43節)。この議員というのはイエスを裁判にかけ、「死刑にすべきだ」と決議したユダヤの最高法院のメンバーのことを意味しています。この最高法院は祭司長や律法学者、長老と言った当時のユダヤ人の社会では有力者であった人々によって構成されていました。ですからそのメンバーの一人であったヨセフもかなりの有力者であったことが分かります。
このヨセフは最高法院でイエスを死刑にする決議がなされたときにその会議に同席していたのかどうか詳しくは分かりません。先にも学びましたようにイエスを裁いた最高法院の会議は通常とは異なる異例な形を取って開催されています。場所は何時もとは違う大祭司の館と言うところで行われました。さらにその開催時間も通常は昼に開催されるのに、このときは夜という不自然な時間に開かれています。もしかしたら、この会議にはイエスを死刑にするために都合のよい人物たちだけが集められていたのかもしれません。
このヨセフは勇気を出してピラトの元に行き、イエスの遺体を引き取りたいと願い出ています。イエスの遺体を引き取ると言うことは、それを申し出た人物もイエスの仲間であると言うことを公に認めるような行為でした。その人はイエスの仲間としてこれから自分も同じような目に会うことを覚悟しなければなりません。ヨセフはそれをも恐れずにピラトにイエスの遺体を引き取ると言う申し出をしたのです。
ピラトはイエスに死刑判決を下した後にイエスがどうなってしまっていたのか、この時まで何も知らなかったようです。彼は「イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い」(44節)、死刑の直接の執行責任者だった百人隊長を呼び寄せて、その事実を尋ねています。この百人隊長はイエスの死の姿を間近で見て、「本当に、この人は神の子だった」と言った人物です。この忠実な百人隊長はピラトの命令通りに、イエスの死を確認し、その遺体をアリマタヤのヨセフに引き渡しています(45節)。
聖書はこの三人の人物を通してイエスが確かに死んでしまったと言う事実を聖書の読者たちに伝えようとしています。ですからここに登場する三人の人物はイエスの死を証しする証人たちと言うことができます。
②イエスの死は幻ではない
「もしイエスが真の神の子、つまり神であるとしたら、神が死ぬと言うことはどういうことなのか」と考える人がいます。なぜならユダヤ人であってもギリシャ人であっても「神は死なない」、「不死の存在」と考えるのが当然だったからです。ですからイエスが神であることと、その死の間には論理的に大きな矛盾が生じてしまうのです。
このような論理的矛盾を解決するために、「イエスは死んだように見えたが、実は死んでいない」と考える人が現れました。このような考えを持つ人々は「そもそもイエスが人としての肉体を取られてこの地上に来てくださったこと自体がおかしい」と考えました。神が不完全な人間の肉体を取るなどと言うことはあり得ないと考えるからです。そしてこのような主張をする人は、イエスの地上での姿はすべて幻のようなもので実態がない存在であったとまで主張するようになりました。このような主張を繰り返す人々を想定してヨハネの手紙にはわざわざ次のような文章を残しています。
「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。」(ヨハネ一1章1節)。
ヨハネはここで「命の言」である救い主イエスについて「よく見て、手で触れたもの」という言葉をわざわざ記しています。「確かにイエスは自分たちが手で触れることができたお方、幻ではなく、本当の人間となって私たちのところに来てくださったのだ」と語るのです。そしてそのイエスは確かに十字架で死んでくださったと言うことを聖書は証言しているのです。
イエスが確かに人となられて十字架の上で死んでくださったことは私たちの救いを実現させるための大切な条件です。なぜなら、イエスは十字架の上で人である私たちの死を代わって受けてくださったからです。神が人となられる、そして人として死んでくださったと言う出来事は私たちを救うために実現した神の驚くべき奇跡であると言うことができるのです。
3.陰府に行かれたイエス
イエスの死は安息日の始まる前の日、金曜日の午後3時に起こったと聖書は語っています。当時のユダヤでは、安息日つまり土曜日は日没になる夕方から始まると考えられていました。ですからヨセフは日没前に急いでイエスの遺体を引き取り、自分のために用意していた墓にその遺体を葬ったと考えられています。安息日に遺体を葬ることは厳しく禁じたからです。だからイエスの遺体はしばらくこのヨセフの墓に安置されました。そして日曜日の朝、この墓にやって来た婦人たちによってその遺体が墓から消えていることが確認されます。彼女たちによってイエスが死から甦られたと言う出来事が確認されたのです。
それでは十字架で死なれたイエスは、日曜日の朝に復活されるまでの間、いったいどこにおられたのでしょうか。それについてキリスト教会が古くから用いている信仰告白の文書である使徒信条は面白い言葉を語っています。使徒信条はイエスについて「十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死人のうちからよみがえり…」と言っています。
イエスは「よみにくだられた」と使徒信条は語っているのです。この「よみ」とは死んだ者が行く世界と言う意味を持った言葉です。旧約聖書にも新約聖書にもこの「よみ」という言葉がたびたび登場しています。
私たちは「人間は死んだら、よいことをした人は天国に、そして悪いことをした人は地獄に行く」と考えているかもしれません。しかし、聖書は死者の行くところについて、そのようにはっきりと語ってはいるところは無いのです。ただ、死んだ者はこの地上とは違った世界、死者の世界に誰もが行かことになると語るだけなのです。そのような意味で、この使徒信条の「よみにくだられた」という言葉はイエスが私たち人間と同じように確かに死なれたこと、死の世界の住民となられたことを表しているということができます。イエスは私たちの救い主としてこの地上の世界だけではなく、死者の世界にまで行かれて、私たち人間と同じ体験をされたのです。だから、イエスの死は私たちを救い出し、死者の世界から私たちを解き放つ力を持っておられると考えることができるのです。
4.陰府も神の国
①よみくだりの別の解釈
ただこの「よみにくだり」という部分についてのカトリック教会の解釈は私たちプロテスタント教会の解釈と少し違っています。カトリック教会はイエスがよみにくだられたのは、そのよみに囚われている人々に福音を伝えて、彼らを救い出すためだったと教えるからです。つまり、地上でキリストの福音を聞くことができずに死んで行った旧約時代の信仰者たちの魂を救い出すために、キリストはよみにくだられたと彼らは説明するのです。
私たちがこの教えを信じないのはキリストの誕生以前に生きた旧約聖書の信仰者も、聖書に記された神の約束を信じることで、私たちと同じようにキリストを信じて救われた者たちと考えることができると信じているからです。旧約聖書の時代の信仰者も私たち新約時代に生きる信仰者もキリストを信じる信仰によって同じように救われているのです。だからキリストが旧約時代の信仰者のためによみの世界に行かれて彼らに伝道する必要はないと考えることができるのです。
②キリストがよみを天国と変えてくださった
イエスの遺体を引き取ったアリマタヤのヨセフは「神の国を待ち望んでいた」(43節)と記されています。福音書の中でユダヤ人向きに書かれたマタイの福音書だけはこの「神の国」を「天の国」と言い換えて表現しています。それは「神の御名をみだりに唱えてはならない」と考えるユダヤ人たちに抵抗感を感じさせないためです。そのためマタイはわざわざ「神」という言葉を書くのを避けて、その代わりに神がおられる場所である「天」という言葉を使って表現したのです。ここからもわかるように聖書の語る「天国」とは死者が行く場所ではなく、「神の国」を指しています。神がおられる場所が「天国」なのです。だから「天国」には生きた者も入ることができると教えることができるのです。
イエスはこの天の国が近づいたこと、実際にこの地上に実現したことを人々に教えました。なぜなら、神の子であるイエスがこの地上に来てくださったからこそこの地上が「神の国」、「天国」に変えられたからです。たとえそこがどこであっても、イエスが共にいてくださる場所こそ「天国」であると言えるのです。そしてイエスを信じる者はすでにこの天国の住民とされているのです。なぜならイエスは彼を信じる者といつも共にいてくださるからです。
そのイエスがよみにくだられたこと、死者の世界に行かれたことは大きな意味を持っていると考えることができます。なぜなら、よみは神の子であるイエスが行かれることで「天国」に変えられたからです。
イエスと同じように十字架にかけられた犯罪人の一人は、その十字架の上からイエスに向かって「私を思い出してくださり」と語りかけました。イエスはその犯罪人に「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されたのです。この言葉は確かによみにくだられたイエスによって実現しました。なぜならばイエスが死者の行く世界に行ってくださることによって、そこが天国に変えられたからです。
イギリスのピューリタンの信仰者ジョン・ブレストンと言う人物は、自分の死期が迫ったときに、「死ぬことは恐ろしくないですか」という質問を受けました。そのときブレストンは最後の力を振り絞って、その質問にこう答えたと言います。「いいえ、自分のいる場所は変わりますが、わたしと一緒にいてくださる同伴者は変わりません」。
私たちの救い主イエスは信じる私たちといつも共にいてくださる方です。イエスは私たちの地上の生涯においても、私たちと共にいてくださってそこを天国に変えてくださいます。そして私たちがこの地上の生涯を終え、死者の世界に行くときも、私たちと共にいてくださってそこを天国としてくださるのです。このように救い主イエスの死は、私たちの死と言う現実を大きく変えるための出来事であったことが分かるのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神さま
私たちのために神の子が人間の死を体験されることで、私たちを地獄のような不安から解き放ってくださる恵みを感謝いたします。主イエスは信じる私たちといつも一緒にいてくださいます。そして私たちが行く場所を天国と変えてくださることを心から感謝いたします。どうか聖霊を遣わしてこの真理を私たちが心から悟り、喜ぶことができるように助けてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスの遺体を引き取らせてほしいとピラトに願い出た人は誰でしたか(43節)。聖書はこの人物についてどのような紹介をしていますか。
2.十字架刑が執行された囚人は十字架の上で長時間さらされた上で、息を引き取るのが普通でした。ピラトがイエスの死を聞いて不思議に思った理由はそこにありました。ピラトはこのことを確かめるために誰を呼び寄せましたか(44節)。
3.アリマタヤ出身のヨセフはイエスの遺体をどのようにして自分の墓に葬りましたか(46節)。この様子を近くで見つけていたのは誰でしたか(47節)