2013.8.11「嘆きが喜びに変わる」
詩編30編1~13節
1 【賛歌。神殿奉献の歌。ダビデの詩。】
2 主よ、あなたをあがめます。あなたは敵を喜ばせることなく/わたしを引き上げてくださいました。
3 わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。
4 主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました。
5 主の慈しみに生きる人々よ/主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ。
6 ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる。
7 平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。
8 主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました。
9 主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います。
10 わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか。
11 主よ、耳を傾け、憐れんでください。主よ、わたしの助けとなってください。
12 あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。
13 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます。
1.悲しみが喜びに変わった
今日は伝道礼拝ですので、今月の月間の聖句から皆さんと共に神のみ言葉を分かち合いたいと思います。8月の聖句は「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」と言う旧約聖書の詩編30編6節のみ言葉です。
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変えてくださった」。苦難の内で嘆き続ける人はうずくまり、立つことさえできないはずです。その人が「踊り」だすと言うのです。もちろん、この踊りは狂気の踊りではなく、「喜び」の踊りです。喜びがその人の心の内からわき上がって、踊らずにはいられない、そんな変化がこの詩人の人生に起こっていることを表現しているのです。
「粗布を脱がせ、喜びを帯びとしてくださいました」。粗布を着るとはその人の心の悲しみを表すものです。聖書の世界では自分の罪の深さを覚え、それを悲しみ、神の御前で悔い改めを示そうとする人はこの粗布を身にまといました。「粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださる」と言うのですから、これも神がその人の悲しみを喜びと変えてくださったと言うことを表す言葉になっています。
このような詩人の心に起こった変化はこの箇所だけではなく、たとえばこの同じ詩編の6節後半にも次のように表されています。
「泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」。
この「泣きながら」と言う言葉をある人は「号泣する」と訳しています。「人知れず夜、涙を流し、枕をぬらす」。そして次の朝は何事も無かったかのように振る舞う。そんな姿がここには記されているのではなく、あふれ出る涙を自分では止めることができない、もはや泣くことしか出来ないような状況に立たされた人の姿が表されています。その人に神が働きかけ、喜びの歌を与え、朝を迎えさせてくださったと詩人は記しているのです。
詩人はこのように自分ではどうすることもできない苦難に遭遇し、泣くことしかできなかった状態から神によって救い出されたことを告白しています。だから「主よ、あなたをあがめます」(2節)、「主に賛美の歌をうたい/聖なる御名を唱え、感謝をささげよ」(5節)。「わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます」(13節)と言うような神への応答、喜びと感謝に詩人の心は向けられているのです。
2.死の病から癒された人
それではこの詩人が体験していた苦難とは具体的にどのようなものだったのでしょうか。それを推測することの出来る言葉がこの詩編の中にはいくつか登場しています。
「わたしの神、主よ、叫び求めるわたしを/あなたは癒してくださいました。主よ、あなたはわたしの魂を陰府から引き上げ/墓穴に下ることを免れさせ/わたしに命を得させてくださいました」(3~4節)。
また、10 節にはこのような言葉が記されています。
「わたしが死んで墓に下ることに/何の益があるでしょう。塵があなたに感謝をささげ/あなたのまことを告げ知らせるでしょうか」。
ここには「陰府」とか「墓穴」、そして「死」と言う言葉が登場しています。その上で「あなたは癒してくださいました」と詩人の告白が語られています。これらの言葉からこの詩人は一時的に重篤な病に陥り、死線を彷徨いながらも奇跡的に癒され、その危機状態から脱出することができた人であると考えることができます。
私の母教会で長い間奉仕していた一人の引退長老は、だいぶ前、自分の家の庭の植木の手入れの最中にはしごか何かから落下したらしく、重体の状況で病院に担ぎ込まれました。しかし、病院での治療の甲斐無く、やがて危篤となりました。「いよいよこれはだめだ」と考えた家族が病院側に申し出て、本人に取り付けられていた生命維持のための装置を外すところまで行ったと言うのです。ところがその後、突然、本人が自己呼吸を始め、それから一気に回復し、生還できたと言うのです。先日、私は母教会に久しぶりに呼ばれて奉仕をしました。そのとき元気なその長老の姿を見ることができました。もともと教会の奉仕に熱心な長老でしたが、死ぬはずだった自分の命が助けられたと言うことで、残された人生でますます神様に奉仕したいと願っていると言うお話を聞くことが出来ました。
この詩人も神によって命を回復されたという経験を経て、神に対する喜びと感謝の思いをこの詩編の中に綴っていると考えることができます。
3.死から命へと回復させてくださる神のみ業
①ひとときの御怒り
しかし、この詩人はだから「神様はどんな病気も治してくださる、私たちにとって都合の良い方だ」と言っているわけではありません。むしろ、この詩人は自分が危機的な死の病から神によって癒されたということを語るだけではなく、どうして自分がそのような死の病に苦しむことになったのか、その理由を考えながら、そこにも自分に対する神の恵みのみ業が隠されていたのだと言っているのです。なぜなら詩人はこう語っているからです。
「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる。泣きながら夜を過ごす人にも/喜びの歌と共に朝を迎えさせてくださる」(6節)。
ここに「ひととき、お怒りになっても」と言う言葉が記されています。つまり詩人は自分が一時的にこの神の怒りのもとにあったということを認めているのです。実は、聖書の世界では人間の病も、またそこからの癒しもすべて神から与えられるという信仰があります。つまり、この詩人が死の病に冒されたのも神のみ業であったと彼は自分で認めているのです。しかし、詩人はその上で「ひととき、お怒りになっても/命を得させることを御旨としてくださる」と神のみ業を語っています。つまり神が怒るのは、その人に命を得させるための一時的な行為なのだと言っているのです。神が怒りの目的は人に命を得させるためだと言っているのです。そして詩人はこの神の怒りによって今、自分は命へと回復されたと語るのです。
②神を呼び求めさせるために
それではどうして詩人は「ひととき」、神の「怒り」を受けることになったのでしょうか。この詩編はその理由について次のように語ります。
「平穏なときには、申しました/「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と。主よ、あなたが御旨によって/砦の山に立たせてくださったからです。しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました」(7~8節)。
平安なとき、詩人は「わたしはとこしえに揺らぐことがない」と確信していました。本当は神が彼を支えてくださっているから彼は平穏でいることができていたのです。ところが彼は自分は大丈夫だ、自分の力で何とかやっていけるといつの間にか自分を過信していたと言うのです。当然、そうなると神を呼び求めることも、神を礼拝することも必要なくなります。神に真剣に向き合う必要を感じなくなってしまうのです。だからこそ詩人の人生に変化が起こります。「しかし、御顔を隠されると/わたしはたちまち恐怖に陥りました」。平穏な生活を奪われて、死の病に冒された詩人はここで真剣になって神を呼び求めることになります。
「主よ、わたしはあなたを呼びます。主に憐れみを乞います」(9節)。
おそらく、この詩人は今までも神に祈りを献げ、神を礼拝し続けてきたのかもしれません。しかし、それは自分が人から教えられた通りのことをしてきたに過ぎなかったのです。彼は形だけでもそのように振る舞えばいいと思っていました。ところが、この詩人は死の病に冒されたときに、本当の意味で始めて神を呼び、主に憐れみを乞うことになったのです。そして、この詩人の呼びかけに、憐れみを乞う祈りの言葉に神は耳を傾け、はっきりと答えてくださったと言うのです。だから詩人は心から語ります。
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました。 わたしの魂があなたをほめ歌い/沈黙することのないようにしてくださいました。わたしの神、主よ/とこしえにあなたに感謝をささげます」(12~13節)。
詩人は死の病から神によって癒されました。しかし、この詩人の危機的な状況は実はこの死の病にかかる以前からであったと言うことがわかります。神を知りながら、また神を礼拝する生活をしながら、彼と神との間には命の関係が成り立っていなかったのです。生きていると言うのは名ばかりの死んだ信仰者として歩んでいた彼を命へ呼び出されたのが神のみ業です。つまり、詩人が感謝を献げるのは身体的な病からの癒しが与えられたと言うだけではなく、むしろ神との命の関係が回復されたこと、そのための神の怒り、そして神の癒し、そのすべての神のみ業に彼は感謝を献げているのです。
4.「わたしの神」
ある説教者はこの詩人が神に向かって「わたしの神」と呼んでいることを重要視しています。漠然とした「神」でも「イスラエルの神」でも、先祖たちの「神」でもなく、「わたしの神」とこの詩編を記した詩人は神に呼びかけます。そしてこの詩人の人生に起こった危機は、彼が神を「わたしの神」と呼べるようにさせるためのものだった言うことを教えるのです。
子供のころ生中継のテレビ番組で全国の電話帳を準備して、そこから無作為に誰かの家の電話番号を選び出し、スタジオからその家に電話をかけるというものがありました。その電話の相手がたまたまその番組を見ていて、出演者があらかじめ番組内で知らせる合い言葉が言えたら、その人は豪華な賞品を手に言えることができと言うものだったと思います。ほとんどの家は、電話をかけても留守であったり、たまたま電話に出てもテレビを見ていないであわててしまう光景が繰り返されます。しかし、ときどき実際にそのテレビを見ていた人がスタジオから電話を受け取ることもあります。今までは、いつものテレビ番組だと思って何気なくその番組を見ていたのに、突然、スタジオからの電話で呼び出されます。受話器を取ると、テレビの放送の中からも電話を通して返事をする自分の声が聞こえる、そんな驚きの光景が放送されていました。
この詩編の詩人は今までテレビ番組の一人の視聴者としてそのテレビ番組を見ていたのに、一本の電話のベルによってそのテレビに出演させられた人と同じなのかもしれません。突然、死の病のという危機的な状況を通して神の招きが届きます。そこで彼は始めて気づきます。聖書に語られている神の救いの出来事は私のためにあったと言うこと、この聖書に記されている神は私のためにその救いのみ業を行われる「私の神」であったと言うことを…。
イエスも聖書の中でこう呼びかけています。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイによる福音書11章28節)。
この呼びかけを他の誰ででもなく、この私のための呼びかけだと受け容れ、信仰を持って応答する人の人生に神は必ず働きかけてくださいます。
「あなたはわたしの嘆きを踊りに変え/粗布を脱がせ、喜びを帯としてくださいました」。
そしてイエスのこの呼びかけに信仰を持って応答するなら、この詩編を記した詩人の喜びの告白を私たちも自分のものとして告白することができるようにされるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.詩人は主が自分に何をしてくれたことを喜び、その主をあがめようとしていますか(2節)。
2.3~4節の言葉を読むと、この詩人がどのような危機的な状況から主によって救われたことが分かりますか。
3.「主の慈しみに生きる人」(5節)とはどのような状況でも「主の慈しみを疑わない人々」と読み替えることができます。そのような人々は主の慈しみを疑わず、むしろ何をすべきだと詩人はここで勧めていますか。
4.神の「ひとときの怒り」は私たちに神が何をするためのものだと詩人は語っていますか(6節)。
5.神から与えられた平穏な生活を、自分の力のせいだと過信するものは必ずどうなってしまうと詩人は言っていますか(7~8節)。
6.自分の力に過信して、神と向き合うことをしなかった詩人が真剣に神と向き合うことになったのはなぜだと言っていますか(9~10節)。
7.苦難の中で神を呼び求め、憐れみを乞うた詩人に対して神はどうしてくださったと彼は言っていますか(12節)。
8.この詩編を読んで、あなたは神と自分との関係について何を考え、何を示されましたか。あなたが気づいたことを覚えながら神に祈りを献げてみましょう。