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2013.7.21「主が共におられる」

使徒言行録18章9~10節(新P.249)

9 ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた。「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。

10 わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ。」


1.神も仏もあるものか…

①神は存在するのか?

 今日は「主が共におられる」と言うテーマで皆さんと私たちの信仰生活について考えてみたいと思います。「主が共におらえる」と言う言葉は、別の言葉に置き換えれば「神様が共におられる」と言うことになります。現代でも宗教や信仰についてあまり真剣に考えない人も、その多くの人たちが「神らしきものはいる」と考えていると言います。私たちの人生や生活の背後に目では確認できない、何らかの存在があると考える人も意外と多いのです。お正月にたくさんの人々が神社仏閣に行ったりするのはその表れなのかもしれません。

 しかし、そう言いながらも、私たちはいろいろな人の口から「神も仏もない」と言う言葉を聞くことも多くあるのではないでしょうか。人生において過酷な現実にぶつかってしまったとき、また矛盾に満ちた世界の姿を見つめるときに、「神も仏もない」と言ったり、考えたりする人が多いのです。それらの人たちは「神が存在するなら、こんなことは起こりえない」と勝手に考えて、早急に「だから神はいない」と結論づけてしまうのです。


②私たちと神との関係は?

 しかし 「主が共におられる」と言う今日のテーマは単に「神がいるか、いないか」と言う問題だけを取り扱うものではありません。なぜならこの「共におられる」と言う言葉には神が存在するという事柄以上の意味が含まれているからです。「共におられる」それは、神が私たちの人生に深く関わってくださり、私たちの人生を導いてくださると言う意味を持っています。たとえ神が存在しても、私たちの無関係に、遙か高見の場から私たちを見物しているなら「主が共におられる」と言うことはできないのです。

 しかし、そう考えると「神も仏もあるものか」と言った人々は、「それならますます。自分たちの主張は正しいに違いない」、「なぜならば、もし神が私たち一人一人の人生に深く関わってくださっているとしたら。自分の人生がこんなふうになるのはおかしい」と主張するかもしれません。しかし、聖書は一貫して私たちに対して「主が共におられる」という真理を語り伝えています。聖書の語るこの真理は本当に正しいのでしょうか。また「主が共におられる」としたら、その主はどのように私たちの人生に関わってくださるのでしょうか。そして私たちはその事実をどうしたら確信することができるのでしょうか。


2.神と共に生きるために創られた人間

①神に創造され、神にかたどられた人間

 さて「神がおられるか、おられないか」、あるいは「神は私たちと共におられるか」。そのような私たちの問いに対して聖書は最初から明確な答えを語っています。なぜならこの世界とそこに住む私たち人間は、皆、神によって創造されたと聖書は教えているからです。ですからこの宇宙が存在し、この地球上に私たち人間が住んでいるのは、神がおられる証拠であると言えるのです。なぜなら神がもし、おられなからったら、神の創造はないのですから、宇宙も人間も存在しないことになってしまうのです。

 そればからではありません。この神の創造の中で私たちに人間は何のために創造されたのでしょうか。人間は神がご自分と共に生きる存在として創造されたものなのです。創世記に記された創造物語の中で、人間は特に「神にかたどって創造された」(創世記1章27節)と記されています。これは神の創造された物たちの中で人間だけは特別な存在として造られたということを意味しています。「神にかたどって」、あるいは「神に似せて」人間は造られたのです。それはどうしてでしょうか。人間だけが神と向き合い、神と語り合って共に生きる存在として造られたからです。つまり、「神にかたどって」造られた人間だけが、神とのコミュニケーションを正しく持つことができる存在なのです。


②神から離れた人間の人生は悲惨

 このように、私たちがたとえどのように考えようと聖書は、私たち人間は最初から「神と共に生きる」ために創造されたと言うことを教えているのです。そのように考えるとき、同じ創世記が教える人類の堕落の出来事がどんなに私たちに人間にとって深刻な意味を持っているかが分かって来ます。最初に造られた人間であるアダムとエバは罪を犯し、神に背くことによって、神と共に生きることを拒否してしまったのです。つまり、本来私たちに人間は神と共に生きる存在として造られたのに、そのように生きることができなくなってしまったということが堕落物語が教えることなのです。こうなるとその人生は悲惨なものになるほかありません。私たちの人生から大切な部分がぽっかりと抜け落ちてしまったからです。

 古代教会の神学者であったアウグスチヌスと言う人は「私たちに人間は神に向けて造られた。だから人間は神の御許で憩うまでは、本当の安らぎをえることはできない」と語ったと言います。「何か人生に空しさを感じる」と考える人も多くいます。そして、その空しさを埋めるためにいろいろなもので自分を満たそうとするのです。しかし、聖書は私たちの空しさを満たすものは神だけしかおられないと言うことを私たちに教えているのです。


3.信仰によって新しい人生を始める

①神の呼びかけに答えて旅立つアブラハム

 さて、私たち人間はその最初の存在であったアダムとエバの時代から神と共にあることを拒み、自ら悲惨な人生を歩み出しました。ですから私たちの人生の問題、世界の矛盾はこの神と共にあることを拒否した人間によって起こされていると言ってよいのです。しかし、確かに人間は神と生きることを拒否しましたが、その一方で神はどのようにされたのでしょうか。神も罪を犯した人間を見捨て、私たちと全く無関係に生きようとされたのでしょうか。聖書はそのような人間の罪にもかかわらず、神は一貫して私たち人間と向き合い、私たちと共にあろうとされていると言うことを教えているのです。救い主イエス・キリストを私たちのために遣わしてくださったことは、この神の変わらない私たちに対する態度を示しています。つまり、私たちが自分で認めるか、認めないかにかかわらず「神が共におられる」と言うことは確かな事実であると言えるのです。

 そして聖書は神の存在を分からなくなってしまった人間に対して、神がご自身の存在を明らかにし、ご自分と共に生きるようにと願っている姿を私たちに教えます。それはたとえば、同じ創世記の中に登場するアブラハムと言う人物の人生にもよく示されています。このアブラハムに関する物語は次のような神の彼に対する呼びかけから始まっています。

「主はアブラムに言われた。「あなたは生まれ故郷/父の家を離れて/わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし/あなたを祝福し、あなたの名を高める/祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて/あなたによって祝福に入る。」(創世記12章1~3節)

 信仰者アブラハムの人生は、彼がこの神の招きに答えて「主の言葉に従って旅立った」(4節)と言う言葉で始まっているのです。それまでアブラハムはメソポタミアのハランと言う彼の先祖が住み着いた町に、彼の父親や親族と共に住んでいました。それまでの彼の世界は彼の先祖たちと同様に神を拒否した世界、神のない世界でしかなかったのです。ところが神はそのアブラハムに呼びかけて、彼を旅立たせようとしました。神はアブラハムにこの世界の目には見えない本当の姿を教え、またそこに生きるようにと招いてくださったのです。そして、そこからアブラハムの人生の歩みは大きく変わって行きます。


②信仰は真実の世界を

 新約聖書のヘブライ人への手紙を書いた著者はこのアブラハムの人生を証拠に挙げつつ、次のような言葉を語ります。

「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(12章3節)。

 アブラハムは今まで自分が見て経験してきた世界の向こう側に、自分の目には見えませんが確かな真実の世界が存在することを、神の招きに答えて旅立つことで知ったのです。そしてアブラハムの人生はこの目には見えない世界が確かであることを確信して行く人生であったことを教えています。私たちが神を信じて生きる信仰生活も同じ意味を持ちます。今までは私たちは自分の目で見て、また先祖たちから教えられた世界だけが確かなものだと考えていました。ところが実は本当の世界はそれだけではなかったのです。もっと確かな世界が目には見えませんが私たちの前には広がっていたのです。ですから信仰とはこの目に見えない世界を認めて生きることだと言えるのです。

 アメリカのグランドキャニオンは自然が生み出した絶景があることで世界的に有名なところです。あるとき一台のバスがこのグランドキャニオンの雄大な景色の中を走っていました。バスの周りには世界でもここでしか見られないという絶景が広がっています。ところ不思議なことに、バスに乗っている乗客は誰も、不機嫌そうで、苦虫をつぶした顔をしています。こんな絶景を前にどうして彼らは不機嫌なのでしょうか。それはこのバスの窓という窓すべてにブラインドカーテンが降ろされていて、誰も外の雄大な景色を見ることができなかったからです。私たちの人生はこのブラインドカーテンが降ろされているバスの乗客とよく似ています、彼らが見ているのはバスの中のつまらない現実だけです。しかし、彼らが一度、自分の窓に降ろされているカーテンを上げるなら、そこには彼らを感動させる雄大な景色が広がっているのです。私たちはいつの間にか自分が見ている眼の前の現実がすべてであるかのように勘違いし、不機嫌で、希望のない生活を送っています。そして信仰とはその私たちの心にかかったカーテンを上げて、神が示される世界を見ることだと言えるのです。

 信仰は私たちの前にある現実を否定するものではありません。確かに私たちの前には相変わらず私たちを苦しめているような厳しい現実があります。しかし、信仰の目はこの目の前の現実だけではなく、もっと確かな事実が私たちの前にあることを教えるのです。そして私たちがこの目には見えない事実を知るときに、私たちの経験している目の前の現実の本当の意味も知ることができると言えるのです。


4.私たちはどのように生きるのか

 今月の聖句に選ばれている使徒言行録18章9~10節の言葉、「恐れるな。語り続けよ。黙っているな。わたしがあなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」と言う言葉は伝道者パウロに語りかけられた主イエスの言葉です。

 伝道者パウロの人生を私たちはこの礼拝でしばらく学び続けて来ました。かつては教会の熱心な迫害者であったパウロはダマスコと言う町に行く途中で復活されたイエスとの出会いを経験します(使徒9章)。アブラハムが神との出会いによって新しい人生を始めたように、パウロの新しい人生はここから始まったのです。

 神の招きに答えて歩み始めたパウロの人生も決して容易なものではありませんでした。伝道者としての使命を果たすために彼は様々な問題に出会い、最後には捕らえられ自由を奪われ、囚人としてローマに護送されたところを私たちは最近の礼拝で学んでいます。しかし、そのパウロの生涯は見方を変えれば「主が共におられる」と言う事実を確認する人生でもあったと言うことを私たちはこの使徒言行録の学びを振り返ることで理解することができます。

 確かに主の姿はパウロの肉眼では見ることはできません。しかし、パウロが信仰を持ってこの主の言葉に従うときに、彼の人生に主のみ業が見事に実現して行ったのです。

 「主が共におられる」。それは私たちが否定しようがしまいが、聖書が教える確かな事実です。私たちはこの事実を否定して生きることもできますし、また信じて生きることもできるのです。それでは私たちはどちらの生き方を選ぶべきなのでしょうか。ブラインドカーテンが降ろされたバスの中の乗客のように、目の前の現実だけを見て、退屈で、つまらない人生を送るのでしょか。それとも神が教えてくださる確かな世界を信じて歩むべきなのでしょうか。

 もちろん、聖書は私たち一人一人がその心に降ろされた「罪」と言うブラインドカーテンを上げて、信仰によって私たちの人生を取り巻くすばらしい恵みの世界を見るようにと勧めています。なぜなら、神は私たちの心を閉ざしている罪から私たちを救うためにイエス・キリストを遣わしてくださったからです。そして神は私たちに、神の約束を信じて、それぞれの人生で「主が共におられる」という事実を体験するようにと招いてくださっているのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.現代人の多くは「神らしきものがある」と考える一方で、「神も仏もない」と嘆きます。そのような人々にとって神とはどのような存在であると言えるのでしょうか。

2.「主が共におられる」と言う言葉は、漠然と神らしき方がおられると言う意味ではなく、神が私たち一人一人と向き合い、私たちの人生を導いてくださると言う意味を持っています。あなたは自分の人生でそのような思いを抱くことができますか。あなたがそう思うのはどうしてですか。

3.神の招きに答えて旅立ったアブラハムの人生はそれ以前の人生とどこが決定的に違っていたと言えますか。ヘブライ人への手紙12章のアブラハムの人生に関する記述も参考にして考えてみましょう。

4.なぜ信仰を持って生きる私たちは目の前に厳しい現実を見ながらも、希望を失うことがないのですか。

5.「主が共にいてくださる」という聖書の教える事実を、私たちが確信することができるために、神は私たちに何をしてくださいましたか。

6.私たちが神の約束に従って生きるようになるとき、私たちにはその人生で何を知ることができるようになると言えるのでしょうか。パウロの人生を例にしながら考えてみましょう。

2013.7.21「主が共におられる」